意思・責任・その他 2/3

 

[意思と自由] 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。’自由のはき違え’ となる。だから、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。特亜三国 (日本・中国・韓国) の言語には時制がない。だから、真の意味での意思がない。意思の無い人たちにとっては全体主義の生活は苦しくない。彼らは意思の無い行動の自由を望んでいるが、それは恣意の自由であるから受け入れられることではない。特亜三国人は自由の旗手にはふさわしくない。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。だから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯であるから、お変わりのないことが何よりなことである。だから、日本人は保守的な人間になる。  

 

[理解と忖度] 見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。楽ちんである。正解はただ一つである。誰でもその内容を話すことができる。子供でもできる。

非現実 (考え) は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。 

矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。 矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。

考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもある。だから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。自己実現が難しい。 

 

[世界観] 全ての考え (非現実) は、文章になる。文章にならないものは考えではない。日本人には世界観がない。世界観は、非現実 (考え) の内容である。

非現実の内容は、時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実を垂れ流す。だから、個性がない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。 

 

 

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意思・責任・その他 1/3

 

[意思について] 日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。困った時には他力本願・神頼み。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)  

 

[意思と責任] 日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

これは、‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない。

 

[義務だけがある責任] 責任とは、個人の意思により問題を解決することである。ところが、日本人には意思がない。意思の無い人には方法 (仕方) がない。だから、責任という言葉は日本人にとっては義務と同じになる。そして、誰も責任者になることは好まない。責任に関する無意思の人達の残酷物語も存在する。日本人が意思を認めない限り責任問題を理性的に解決する方法はない。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  

 

 

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共同体・機能体 2/2

 

>このメンバーでもうしばらくやってみよう、だの新しい仕事獲得などの声が上がったら、間違いなく共同体化しているとみて間違いない。 > 日本企業の組織には機能体の性格に加え、共同体の性格も併せ持っている。>つまり、二面性があるということだ。 

 

そうですね。日本人の社会は序列社会でからね。機能体にも世俗的な序列関係が出来上がります。 サッパリしていない。ウエットですね。   

 

> 日本企業特有の組織の特徴とは「価値観の混乱」

 

日本人にとっては、人間の序列の存在を知れば、そこに無条件に価値を見出すことになる。’大日本帝国憲法 第一章 天皇 第一条 大日本帝国万世一系天皇之を統治す’ のようなものでしょう。   

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。これは ‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な上下判断 (序列判断) であって縦社会 (上下社会・序列社会) の形成に必要なものである。この世俗的な上下判断の疎かな人は、日常の日本語会話にも差し支えることになる。 

 

> 日本風土に根ざした企業の組織は、皆の意見を聞きながら調整していくマネージャーを中心に、メンバーの体調や持病のこと、はたまた家族の具合、花見の場所どりは新入社員の仕事と先輩から引き継がれ、ボーリング大会のセッティングに励み、頻繁に飲みにケーション活動を行い全員が全員のことを知っている体験共有の組織となっている。 

 

そうですね。日本の風土は序列人間の社会風土ですね。家族的待遇がありますね。これは共同体集団でもありますね。  

 

>もし、このような活動に一切興味を示さず、部下の体調が悪くても声も掛けない課長はドライを通り越して冷たいだとか仕事人間だとか言われ、上司からも部下からもその評価は芳しくないのが通例だ。  

 

そうですね。ビジネスライクは、日本人には評判が悪いですね。  

 

>これらは、典型的な共同体としての特徴だ。 

 

そうですね。その特徴は万世一系天皇の存在が必要ですね。序列社会においては、機能体集団にも共同体集団の要素が必要になりますね。  

 

>典型的な日本企業では、その組織に所属(帰属)するというだけで特別の意味が与えられなければならない。  

 

そうですね。日本人の世俗的な序列意識は則ち帰属意識となっていますね。 ‘あっしは〇〇組の者でござんす’ とやくざ風に発想するのです。組織を離れると途端にその精神力を失うことになります。 つまり、日本人には自己がない。 あくまでも序列人間ですからね。   

 

>共同体的意味合いが強い組織での動機付けは一言でいうと、「やりがい」だ。  

 

そうですね。日本人にとって ‘義理 を果たす’ ことは、’やりがい’ でありますね。義理とは世俗的序列関係により派生する道徳的な義務のことです。義理を果たすことにより日本人は人間関係を強めることになります。外国で日本人に合えば、地獄で仏に会ったように喜ぶ人もいる。 きっと序列関係を感じているに違いない。これによる親近感がわく。     

 

>給料は月並みで少々不満だが、仕事も面白く上司に目をかけてもらっている。>もう少しガンバッてみようかとなる。 

 

そうですね。皇軍兵士と同様に粘り強いですね。  

 

> 日本企業の組織は、欧米風の目的志向が明確な機能集団組織として徹底されているわけではなく、さりとてこの国際化社会では家族主義的な共同体運営ができるわけでもない。 

 

そうですね。日本人は日本人ですね。  

 

>つまり、どちらつかずの中途半端な組織集団だ。 >混乱していると言った方が適切だろう。 

 

そうですね。日本人の社会では、機能集団と家族集団の結合による混乱が生じていますね。これは、日本語の階称による禍ではないでしょうか。我々には、言葉の研究が必要ですね。 

言語は伝達の手段であると同時に考える手段でもある。言語による混乱は頭の混乱である。我々は日本語の枠組みの中で考えることを強いられた状態にある。日本語と英語の両言語を良く学び、考えの幅を広げよう。  

 

 

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共同体・機能体 1/2

 

>359000 集団とは①~共同体集団と機能体集団~  >前野将克 ( 22 会社員 ) 20/08/04 PM06

>私たち人類は常に何かしらの集団に属しており、集団の中に生きている。 >そういった集団にもどのように作られたかによって違いがあるが、ほとんどの人はそれを認識していない。  

 

そうですね。  

 

>そもそも集団とは何なのか、考えていきたい。 >その上で、魅力的な集団、活力がある集団は何が違うのか。 >そのヒントを探っていく。

 

興味を感じる考察ですね。  

 

> 『共同体集団と機能体集団』

>まず、人の集まりである組織(集団)とは何者であるかについて確認しておきたい。 > 組織(集団)には自然発生的に起こってきた「共同体集団」というものと、何かの目的があって作られた「機能体集団」の二つがある。 >ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」と社会学の専門用語では言うがこれはどうでもいい。 >これは世界中どこへ行っても同じで、アメリカだから一つしかない、なんてことはあり得ない。 

 

そうですね。

 

> 共同体集団

>まず、共同体集団だがもっとも基本的な姿は、血縁に基づく共同体だ。 >生まれると無条件でこの構成員になる、集団の中で能力がないからといって追い出されることはない。 >現代社会でも、教会やお花の教室や山登りの会、ツーリングクラブなどはその集団組織に所属して一緒にいること、さらには満足を得ることが目的であって、役割分担をして利益追及などをするわけではない。 >このような組織を共同体集団(組織)と呼ぶ。  

 

そうですね。

 

> 機能体集団

> 一方、機能体集団というのがあって、これはあ特定のる目的達成のために作られるものである。 >したがって、目的ありきであってそのための人材、資金、もの、役割分担、指揮命令系統、組織が用意される。 >そして、その目的が果たされた時、目的が失われた時はその機能体はその存在意義を失って解散消滅することになる。 >企業とて同じで社会的意義が失われた時には、倒産、解散ということになる。 >われわれの目に映る企業内でのプロジェクトチームなどはその発生から解散まで見ることができ、理解しやすい好例だろう。

 

そうですね。

 

>リンクより引用 

>359002 集団とは②~日本人が持つ二面性~  >前野将克 ( 22 会社員 ) 20/08/04 PM07

>世界の国々の中で日本人の活力は最低と言われている。  

 

それは、わが国は義理を果たす国ではなくなったからでしょう。  

 

>その原因の一つに、日本人の集団の二面性があるのではないかと考える。  

 

そうですね。日本人は共同体集団と機能体集団を分けて考えることができませんね。  

 

>その二面性により、人々の潜在意識化では不整合感を感じ、活力低下に繋がっている。  

 

そうですね。分けて考えることができないのであるから日本人の集団は二面性を持つことになりますね。 

 

>では、その二面性とは一体何なのか、またその上で日本人の持つ可能性とは。 

 

二面性とは共同体集団と機能体集団の二面性でしょう。  

 

> 日本企業の組織は中途半端

> 日本企業内の組織はどうなっているのかというと、企業内で組織の改編や新設を検討する公式な場では、ミッションをもった「機能集団」として語られる。 >設置の目的、機能、組織体系、人事、システム投資&支援、事業計画、バジェットなどを決裁にかけ承認が得られて新設組織ができる。 >会社の中で公式に語られるのは、ここまでである。  

 

そうですね。  

 

>つまり「建前」が語られるだけである。 > 機能集団は与えられた資源を効率的に配分することにより、組織目標を達成するべく合理的な意思決定を行っていこうとする。 

 

そうですね。

 

>目的目標が明確であれば、我々はそのように行動していく。 >成果報酬査定が当然であり、個人の努力が給料に直接跳ね返るような仕事では個人にまで徹底される。 >こういう組織におけるメンバーの動機付けは何かというと、機能集団では構成員それぞれに与えられた役割分担業務にふさわしい対価報酬だ。 >それ以外の要素はほとんどなく、ビジネスライクでサッパリとしたものだ。 >欧米風と言っていい。  

 

そうですね。 サッパリしていますね。 

 

>しかし、ここまでは頭では理解できても、一度組織ができてしまうと、その組織のミッションが終了してもそう簡単に組織がなくなることはない。 >組織を継続させることが目的化してしまうことがよく見受けられる。 

 

それは ‘手段の目的化’ というのではないでしょうか。脱線ですね。危険なことでしょうね。  

 

 

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日本人の可能性

 

>358980 日本企業の強み ~コロナ危機でわかったこと~  > HAYABUSA ( 40代 ) 20/08/03 PM10 【印刷用へ】 

>世界的なコロナ禍のなかで日本企業の「強さ」を伝える記事があった。 >リンク

>要約すると以下のようになる。

>・日本企業にとっての大きな転機は、08年のリーマンショックだった。 >・そこから体質改善を行った企業が多く、利益率が大きく改善している。 >・体質改善に加えて、突然の危機に備えて内部留保を増やした企業が多い。 >  それが功を奏した。 >  (株主は配当を増やせと主張してきたが、それに耳を貸さなかった)  

 

日本人にとっては何事にも本家が大切ですからね。

 

>・悪しき慣行と言われる企業同士のもたれ合いもコロナ禍では福となった。

 

幸運でしたね。

 

>  長年の付き合いから家賃値下げ等を「痛み分け」と理解するため、互いに全損を回避できる。 >  (欧米はこんな時でも裁判沙汰になって勝者がすべてを取る)  

 

そうですね。

 

>・日本の雇用は突然の危機に強い。

>最後まで従業員を解雇しない。

 

日本人には序列メンタリティがありますから、解雇はしづらいですね。

 

>  (内部留保が少ない欧米は、真っ先に経費=従業員を切る)  

 

そうですね。彼らは毎月解雇者を出していますね。

 

>・日本は事業の継続性を守る姿勢。

>  欧米は変わり身の早さと短期収益を重視する。 

 

そうですね。  

 

>  それがコロナ禍で明らかな違いになって表れた。 >  (世界的にみて、創業200年を超える老舗企業の56%は日本企業である)  

 

わが国では、何事も長続きするのが良いことです。 序列人間は解雇されると新しい序列を見つけることに難渋しますからね。浪人になるとかない。 

 

>企業は、社会があって成り立っている。 >したがって、日本式の企業風土が残るのも日本社会の在り様によるところが大きい。

 

そうですね。わが国は序列社会で成り立っていますね。  

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。これは ‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な上下判断 (序列判断) であって縦社会 (上下社会・序列社会) の形成に必要なものである。この世俗的な上下判断の疎かな人は、日常の日本語会話にも差し支えることになる。

 

>欧米の慣習や考え方から見た“悪しき慣習”が、実は、有事の際の強靭性につながる。 

 

序列による団結は、無哲学・能天気の人間の有事の際の対処の仕方ですね。 各人が義理 (序列関係から生ずる義務) を果たすことになります。   

 

>その根底を成しているのが、日本人の一人一人がもつ本源性だ。 

 

それは、序列メンタリティ (考え方) ですね。  

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表れに過ぎない。個人的・精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬にも浅薄さが付きまとう。

日本人は奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、無哲学・能天気であるから奥 (考え) がない。だから、浅薄な人間である。

 

> 我々日本人にとっては、言われなければ気づかない。

 

そうですね。日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。困った時には ‘他力本願・神頼み’ の消極的人生になる。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

>しかし、世界規模に拡大したコロナ禍のなかで我々の可能性が明らかになったと捉えられるだろう。 

 

そうですね。一億総玉砕にならないことを願いますね。  

 

> 新型コロナ感染者数に一喜一憂する前に、日本人の可能性=本源性に目を向けたいものだ。 

 

上手くゆくことを願いますね。

 

 

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考えるな・悟れ 2/2

 

> 西洋であれば、本で読めば知ったことになる。

 

読書には理解が必要ですね。  

 

>しかし東洋ではそうではない。 >いくら話を聞こうが、本を読もうが、人に説明できるまで理解できていようが、そんなことは一切関係ない。 >東洋では、いわゆる「悟った」という状態にならなければ「知った」と認められないのだ。 

 

悟った’ は、社会性のある態度ではないですね。自分勝手な感じがしますね。自己中心的ですね。  

 

>つまり東洋哲学というのは、その語られている内容そのものではなく、「いかに悟るか」という体系にこそ本質がある、というのだ。

 

内容を得るのは目的で、悟るのはその為の手段というのではないのですか。

 

>そう説明されれば、禅の公案なども理解しやすくなる。 >公案というのは例えば、 > * > 両手で拍手するとパチパチと音がするけど、では片手でやるとどんな音がする? > * >というようなものであり、身も蓋もない表現をすれば「絶対に解けないなぞなぞ」のことである。 >この公案が何故悟りに至る体系として利用されていたのか、というのが本書で説明されるのだが、東洋哲学のこういう背景を理解していれば非常に受け入れやすくなる。 >しかし著者は、東洋哲学のこのような側面を知識として知ってしまうことはむしろマイナスである、とも書いている。  

 

東洋哲学では、詰め込み教育はマイナスになりますね。 

 

>公案というのは「解けなくてウンウン悩み続ける」ということにこそ意味があるのであって、「公案って別に解けるつもりで出されてるわけじゃないらしいよ」なんてことを先に知ってしまえば、台無しだというのも理解できるだろう。 

 

どんな意味があるかは問題ですね。  

 

>だからこそ、 > * >そう、だから、ネット検索による知識の公開、そして本書のようなお手軽な入門書といったものは、本当は伝統的な東洋哲学を破壊してしまう存在なのだ >* >というようなことを書いているのだ。 

 

それは急所を突いていますね。  

 

>さらに東洋哲学の特徴としてもう一つ挙げられるのが「ウソも方便」である。 > 先程東洋哲学というのは、「いかに悟るか」という体系にこそ本質がある、と書いたが、この「ウソも方便」もまさにその一環である。 >つまり、> * > 東洋哲学はあらゆる「理屈」に先立ち、まず「結果」を優先する >* >のである。 

 

拙速主義ですか。 

 

>とにかく、なんでもいいから「悟る」ことが大事であって、その過程なんかどうだっていい、というのが東洋哲学だということだ。 

 

それほど ‘悟る’ は大切ですかね。悟った人間は有能ですかね。

 

>この説明のために著者は、法華経に載っているというある例を引き合いに出している。 

 

昔の話ですね。法華経聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来しました。

 

>父親が家に帰ると家が燃えていたが、子どもたちは「火事」というものを知らず、家の中で遊んでいる。 >ここで子どもたちに、「火事というのはこれこれこういうもので危険だからそこからすぐに離れなさい」と言っても、理解できないかもしれないし、興味がないから聞かないかもしれない。 >でも火の手はもうすぐそこまで迫っている。 >どうする? >そこで父親は、「こっちに凄く楽しいおもちゃがたくさんあるよ!」と呼びかけた。>子どもたちはわーっと父親の元へと駆け寄り、命は助かった。

 

まさに ‘稲村の火’ ですね。 

稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年(嘉永7年/安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として高く評価されている[1]Wikipedia  

 

>まさに「ウソも方便」であるが、これと同じようなことも東洋哲学もやっているのだ、という。 

 

機転を利かせる話ですね。  

 

>だからこそ、余計に東洋哲学は理解しがたいのだ、と。 > 本書を読んで僕は、「東洋哲学の理解出来なさ」について理解出来、まずその点が非常に面白かった。 

 

無哲学・能天気になる為の修行ですね。  

 

>今まで「悟り」というのがピンと来なかったが、「悟り」を体験したことがない人間がピンと来ないのは当然だし、また東洋哲学というのは、その「悟り」に至る様々な手法を開発してきた歴史そのものなのだ、という説明は、今までまったく知らなかった話なので興味深かった。 

 

同感です。  

 

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