劣化する日本 2/2

 

>よりよい方策はあります。 >世界に目を向け、これはと思う人を選考会議が選び、理事会が承認すべきです。 

 

個人の能力に焦点を合わせるのですね。  

 

>社員の投票で代表取締役を選ぶ企業はありません。>総長に必要なのは、気概と能力と責任感。

 

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。  

 

>人気投票、つまり意向調査という従来の投票は、学問の自由とは関係ありません」 

 

そうですね。気分・雰囲気の問題ではありませんね。  

 

>  黒川氏の提言は明快である。

>人と組織に、「自立した意思と勇気を持ち、自らの役割を果たしているか」と、問いかける。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

 

>  マスメディアが例外であるハズはなく、こう指摘する。

>  記者クラブ制度のなか、互いに牽制して筆致を緩め、権力やスポンサーに媚びてはいないか。 

 

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)  

 

>誰に遠慮することなく、読者に向けて堂々の情報発信をしているか――。

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べで個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

 

>  “真っ当”な問いかけであり、政府の圧力による学術会議騒動が、どの業界どの職種にも当てはまる普遍的な問題であることを感じさせてくれるのだ。

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に力を合わせることも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

> ------------------------------- 

 

 

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劣化する日本 1/2

 

>361271 学術会議元会長がズバリ指摘、劣化する日本型エリート「病理の正体」(1/2)

>山上勝義 ( 56 建築士 ) 20/10/25 PM11

>yahooニュース リンク 入り、以下転載

> -------------------------------

> 学術会議元会長がズバリ指摘、劣化する日本型エリート「病理の正体」

>■「在り方」が問われる日本学術会議

>  日本学術会議の「在り方」についての論義がかまびすしい。

>  政府が6名を任命しなかった学術会議への人事介入は、「学問の自由」を巡る論義に発展したが、自民党はそれを在り方問題にすり替えた。

 

そうですね。’6名の任命’ と ‘会議のあり方’ は別の問題ですね。結論が出ても、そのリーズン (理性・理由・適当) が明らかでない。アンリーズナブル (理不尽) になっている。  

日本人には意思がない。だが、恣意はある。意思の内容は未来時制の文章になるので意味がある。恣意はバラバラな単語のままで文章にならない。だから、意味がない。

意思のある人には意思決定 (理性判断) がある。意思の無い人には恣意決定 (盲目の判断) がある。前者には意思疎通 (相互理解) があり、対話・議論が可能である。後者には恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があり、談合 (腹の探り合い) をするのが常である。

意思の人には意思決定にリーズン (理性・理由・適当) があるので、説明責任が果たせる。恣意の人には恣意決定に意味がないので、説明責任がとれない。この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。とかくこの世は無責任。

 

>「『会議』の在り方を検討し直す作業チーム」を発足させ、14日に初会合を開き、年内に結論を出す方針だという。

>  目くらましというしかなく、野党やマスメディアは反発しているが、学術会議が政府と政権与党に絡め取られる“スキ”を与えた側面は否定できない。 

 

まともな議論が出来ないので隙だらけになりますね。  

 

>なぜ、学術会議は独立性を失い、人事権を握られ、「在り方」まで問われる存在となったのか。 

 

責任者の責任の無さを表していますね。   

 

>  03~06年まで学術会議会長を務めた黒川清氏に、「混乱の解」を求めてインタビューを申し入れた。>19日、快く応じた黒川氏は、「日本のエリートが、お上頼みで自立していないことが背景にある」と指摘、日本が抱える構造的問題に絡めて解説してくれた。

 

そうですね。日本語の欠陥が、社会の欠陥にまで発展していますね。

 日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)   

 

>  従って提言は、学術会議の問題から始まって、コロナ禍で停滞した治療薬・ワクチン問題、私が本サイトで“迷走”を指摘した東大総長選にも及んだ。

 

無哲学・能天気な日本人には迷走は ‘つきもの’ ですね。  

 

>  黒川氏は、東大医学部卒業後、インターンを経て東大大学院で博士号を取得して渡米。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で准教授、教授を歴任して帰国、母校で教授を務め、学会で数々の要職に就いたうえで学術会議会長となった。 >  現在は政策研究大学院大学名誉教授。11年には国会が設けた東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の委員長に任命され、12年7月、報告書を提出した。

 

ご苦労様でしたね。

 

>その報告書は、事故は自然災害ではなく、「規制の虜」に陥った「人災」だと明確に結論付けており、衝撃を与えた。

>  黒川氏は、規制する側(国)が規制される側(東電)に取り込まれ、本来の役割を果たさなくなってしまうことを意味する『規制の虜』をタイトルに本を書き、「日本の劣化」を世に問うた。 

 

ミイラ取りがミイラになった話ですね。日本人には意思がなくて規制がある。  

 

(略)

>■東大総長選も揉めたが…

> ――いろんなカベが科学者、大学、企業を阻んでいる印象があります。 

 

根本的なところは言語 (日本語) の壁でしょうね。言語は伝達の手段であるばかりでなく思考の手段ですからね。日本人の考えかたに問題があるのでしょう。  

 

>学術会議騒動に隠れましたが、東大総長の選出を巡っても揉めました。 >  「総長選出が不透明になったと、総長選考会議が批判されました。 >ただ、これまでの人気投票的な選抜方法も間違っていると思います。

 

そうですね。  

 

 

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北村浩司氏 2/2 

 

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と猛烈に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。

 

>③さらにそのキリスト教を下敷きにして、西洋で登場するのが近代思想である。> 近代思想の「自由・個人・平等」等は現実に存在しない架空観念であり、「神」をあるべき「人間の理性」に置き換えただけのものにすぎないが、この架空観念は同時に、「自我・私権」を正当化するという性格を持つ。>とりわけ、「権利」とはただ私権を要求することを正当化した架空観念である。 

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。世界観は容易に変わらない。だから個人の信頼の基礎になる。

自己の考えの内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、個性がない。日本人は個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。未来社会の建設にも協力者が得られない。かくして社会に貢献する度合いが限られる。

 

>勿論、権利から派生した男女同権論も、生命原理に反する架空観念で、男女同権論が性を封印してしまったことで人類は絶滅の危機に直面している。

 

男女同権論は ‘女子には教育は必要ない’ といったような極端な現実に対抗するための主張ではないでしょうか。同権論が男同士の結婚にまで行き着くのかはわかりませんね。  

 

>この自我・私権の正当化は、必然的に自分のことしか考えない人間を量産し、集団や人類の命綱である共認充足を破壊する。 

 

人間には世界観が必要ですね。来るべき世界の個人的な内容を持つことが大切ですね。そうでないと、自己中心的な考えになります。政治音痴の国民になりますね。     

 

> 加えてこれらは、「自由は絶対」「人権は絶対」等の形で一切の異論を認めない=観念支配をもたらす。

 

原理主義は良くないですね。’清濁併せのむ’ ことも現実の世界に生活する為には必要ですね。これを ‘中庸の徳’ と言うのでしょうか。      

 

>(異論を封殺する役割を担っているのが、かつての教会に代わる大学や学会である)>かくして「自分」以外のことは捨象され、思考停止が蔓延していく。 

 

自己中心主義は不可ですね。無哲学・能天気のインテリではいられませんね。 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

>このように近代思想が人類を滅亡に導く構造は、反現実の架空観念、異論を認めない絶対ドグマ化、自我・私権の正当化と三段階が塗り重ねられており、滅亡を加速させる構造となっている。 

 

日本人には現実離れのした内容は信じられませんね。日本語では現実しか言い表すことができないから、現実肯定主義者になるしかありませんね。その副作用として閉塞感が湧いてきて浪花節になりますね。

各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy. 哲学がない人には批判精神 (critical thinking) がありませんね。話の内容が現実の内容の垂れ流しになりますね。これは子供の状態ですね。  

個人主義は必要ですね。個人の考えを持つ権利は必要ですね。これは利己主義 (egotism) とは違いますね。利己主義は恣意 (私意・我儘・身勝手) ですからね。

現実を語るのは難しくない。だが、非現実を語るのは難しい。だから、英米流の高等教育が必要になる。

 

 

 

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北村浩司氏 1/2

 

>361042 近代観念が人類を滅亡に導く構造  >北村浩司 ( 壮年 広報 ) 20/10/17 AM09 【印刷用へ】 

>近代思想は17世紀に登場するが、その認識構造は基本的に宗教のそれを踏襲している。

 

近代思想 (自由・個人・平等) は哲学 (非現実) ですし、宗教も宗教哲学ですね。

 

>①約5500年前、乾燥→飢餓を契機として掠奪闘争が始まり、それを武力で統合した国家が形成された。>その結果、全ての物材は支配階級の占有物となり、私権(財産や地位)を獲得しなければ生きてゆけなくなる。 >こうして、社会は否も応もない私権の強制圧力によって埋め尽くされ、誰もが私権の獲得に収束する私権社会が成立した。

 

古代国家の成立ですね。  

 

>・この私権の強制圧力は、人々を戦争や貧困や支配・抑圧のドン底に突き落とす。 >しかし、万人が私権の獲得に収束している以上、その現実を変えることは不可能である。

 

そうですね。修道院にでも籠って熟考してみることが必要になりますね。  

 

>かくして思考ベクトルが、変革不可能視をテコとして反転し、反現実・非現実→神等の架空観念の方向に向かう。

 

考え (非現実) の内容は我々人間にとって大切ですね。もしその内容が筋の通るものであれば、考えとしての価値がありますから。  

 

>このようにして2600年前に登場したのが、ユダヤ教、仏教、儒教などの宗教であり、さらにその思考ベクトルを踏襲したのが自由・平等・人権などの近代思想である。  

 

それは人類の思想史ですね。

 

>それまで人々にとって現実=圧力というものは、否定の対象ではなく、あくまでそれに立ち向かい、克服してゆく対象であった。

 

そうですね。それは実学 (技術) の世界でしたね。

 

>それに対して、現実に背を向けた非現実の架空観念は実現するはずもない。

 

そうですね。それは、我々の夢と希望の内容ですね。考え (非現実) は哲学であり、人間特有の能力の賜物ですね。    

 

>また現実=外圧の変化に適応していこうという、生命原理にも反している。  

 

哲学 (非現実) は、現実を作り替える指針になるのではないでしょうか。未来社会の建設には無くてはならぬ内容でしょう。

現実ばかりの日本人は、千変万化する現実に翻弄されていますね。現実の内容を絶対化するからですね。

山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と書いています。これでは何が本当かわからない。

 

>②その中でもとりわけ反現実ベクトルの色彩が濃厚なのがユダヤ教キリスト教である。>この宗教の特徴は唯一絶対神を信仰する、一神教であることである。

 

ユダヤ教徒は自分たちの宗教も相手の宗教も認めるそうです。ですから彼らはユダヤ教を布教しないのだそうです。

 

>つまり自分たちの神以外は認めない、排他性が強い。

 

キリスト教や回教は排他性が強いですね。だから彼らは広く布教した。十字軍も出た。異教徒を圧迫しますね。     

 

>その基本的性格に加えて教団が確立していくと、神は絶対→教義絶対となり、信仰内容がドグマ化していく。 

 

現実の内容は千変万化しますが、考えは非現実の内容であり、よほどのことがない限り個人の哲学は変化しませんね。信仰の強さになりますね。  

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。

 

>教義絶対とは異論や異端を認めないということであり、異端は宗教裁判や魔女狩りなどで排除・抹殺され、追求封鎖→思考停止が強要されていく。 

 

古い時代の災難ですね。個人主義が必要ですね。考えの内容は人人により違いますからね。’一億一心’ の掛け声も同様に危険ですね。特高警察が活躍します。    

 

>この追求封鎖→思考停止は、変異や多様性を認めないという点で、生命原理に反しており、滅亡に直結する。

 

そうですね。見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも ‘嘘つき’ にはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

 

 

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事大主義 3/3

 

> 武道は四十五年修業していて、自分の道場を持って、数百人の門人を育ててきましたけれど、武道の専門家と名乗るのは今でも恥ずかしい。 >教育は三十五年それを職業にしてきましたけれど、教育学や教育方法の専門家ではありません。 >「教壇に立ったことがある」というだけです。 >映画は若い頃から年間二〇〇本くらいのペースで見てますし、映画についての本も何冊か書きましたけれど、昔から映画の筋も俳優名も観たら忘れてしまう。 > 能楽はそろそろ稽古を始めて二十五年になりますけれど、ただの旦那芸です。 >どの領域でも僕は「専門家」とは言えません。 >でも、半可通の半ちく野郎ですが、何も知らないわけじゃない。 

 

そうですね。  

 

>ちょっとは齧(かじ)ったことがあるので、その領域がどういうものか、「本物」がどれくらい凄いかは骨身に沁みて知っています。 >自分にはとてもできないということはわかる。 

 

あなたは何でもわかるようですね。  

 

>◆半素人

> 僕の学問だって、こう言ってよければ「旦那芸」です。>でも、どの分野についても、その道の「玄人」がどれくらい凄いのか、それを見て足が震えるくらいのことはできます。>そこがまるっきりと素人とは違います。

 

そうですね。   

 

>自分が齧ってみたことがあるだけに、それぞれの専門家がどれくらい立派な仕事をしているのか、それを達成するためにどれくらいの時間と手間をかけたのかがわかる。 >そういう半素人です。  

 

分かりました。あなたは専門家のよき理解者ですね。

 

>でも、そういう半素人にも存在理由はあると思うのです。

 

ありますね。そして、その報酬も得られていますね。     

 

>専門家と素人を「つなぐ」という役割です。

 

そうですね。あなたは個人を評価する人ですね。

 

>僕の仕事は『私家版・ユダヤ文化論』も『寝ながら学べる構造主義』も『レヴィナスと愛の現象学』も『若者よマルクスを読もう』(これは石川康宏さんとの共著)も『能楽は楽しい』(これは観世流宗家との共著)も、どれも専門家と素人をつなぐための仕事です。

>◆思考

>どの分野においても、僕は専門家ではないけれど、専門家の仕事を読者に噛み砕いてお伝えすることはできる。 >そうやって底辺を広げることはできる。 >底辺が広がらないと高度は得られないと思うからです。 >でも、そういう仕事は「専門家のもの」としては認知されない。  

 

そうですね。解説者は専門家ではありせんからね。相撲取りと相撲解説者は同じではありませんね。個人的な見解は、それが受け売りでなければ価値がありますね。        

 

>そして、たまに「専門領域でもないことについて中途半端に口出しをするな」と叱られる。>でも、それが僕には納得できないんです。 

 

そうですね。理不尽ですね。何を言おうがあなたの自由ですね。臆することなくあなたは発言すべきですね。相手は、縄張りを主張するよりもあなたの論旨に批判を加えるべきですね。         

 

> 僕のような半素人が一知半解の言説を述べたとしても、そこにいくばくかの掬(きく)すべき知見が含まれていることもある(かも知れない)。>それがおもしろいと思う人は読めばいいし、読むに値しないと思う人は読まなければいい。>それでいいじゃないですか。

 

本当にそうですね。

 

>「掬すべき知見が含まれているかどうか」は先方が判断することであって、僕が決めることじゃない。 >ましてや、僕に向かって「決められた場所から出るな」と言われてもおいそれと肯(うべな)うわけには参りません。 

 

そうですね。 ‘不自由を常と思えば不足なし’ という世界に慣らされてはいけませんね。人類進歩のコースを逆走することになります。  

 

>◆パターン

>繰り返し言うように、僕は決められた場所から出て、好きなところをふらふら歩き回ることで食ってきたわけで、「やめろ」というのなら休業補償して欲しい。  

 

そうですね。あなたに向かって ‘やめろ’ とは誰も言えませんね。   

 

(略)

 

 

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事大主義 2/3 

 

>◆専門家

>その定型句がなぜか二十一世紀に入ってから、また復活してきた。 >気がつけば、頻繁にそう言われるようになった。 >それは単純に日本人が貧乏になったからだと僕は思います。 

 

我々は環境に合わせて態度を大きくしたり小さくしたりしていますね。   

 

> 少し前に僕の友人の若手の研究者が同世代の学者たちと歓談した時に、談たまたま僕のことに及んだことがあったそうです。 >するとたいへん僕は評判が悪かった。 >どこがダメなのと僕の友人が興味にかられて訊いてみたら「専門以外のことについて口を出すから」だというお答えだったそうです。

 

専門バカ’ というのもいますけれどもね。   

 

> 学者は自分がきちんとアカデミックな訓練を受けた守備範囲から出るべきではない。 

 

原著論文を書くということになれば、守備範囲を換えることは苦労しますけれどもね。書いた内容を見ればその成果は分かりますね。査読者からコメントがあります。     

 

>フランス文学者ならそれだけをやっていればいい。 >それ以外のことについては素人なんだから、口を噤んで専門家に任せるべきだ、と。 >なるほどと思いました。 >時代は変わったなあ、と。 

 

日本人は、思考を停止している。だから、多数の受け売りばかりの人が大勢存在する。ならば、その受け売りの首尾範囲を定めようとする動きもあるでしょうね。  

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)  

 

>②へ 

>361114 日本習合論②  >匿名希望      20/10/20 AM01 【印刷用へ】 

>「批判したければ、批判される対象と同じレベルにまで行け。」「権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ」。>一見、このもっともらしい論理が詭弁であることに気付けるだろうか。 

 

相手はあらかじめ個人の考えに枠を掛けて、自由な討論を封じる手立てに出ていますね。物事の理解を妨げる方向に出ようとしていますね。思考停止をしている人たちの縄張り設定の企みですかね。理不尽で危険な人物ですね。   

‘理屈なら子供にでもわかる’ と言いつつ、大人が何か別に難しいことでもあるかのように思案顔をしている。子供に理屈がわかるのであれば、子供に矛盾もわかるはずである。正しい考えもわかるはずである。考えの理解には老若男女・文化・理科の区別も必要ない。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。考えは、人それぞれである。だから、正解は一つではない。幾らでもある。自由な考えを妨げて、相手は一体何を得ようとしているのか。 

 

>リンクより

>◆追求

>でも、そんなこと言われも困るんですよ。 >僕は「専門以外のことについて口を出す」ことで飯を食ってきたわけですから。 

 

そうですね。何も遠慮することはありませんね。言論の自由は保障されていますね。    

 

>フランスの哲学や文学についてはいくつか論文も書きましたけれど、興味はそこにはとどまらない。 >ついあちこちに食指が動く。>武道論も、教育論も、映画論も、身体論も、マンガ論も、能楽論も、自分の興味の赴くままに、書きました。>でも、どれも専門領域というわけではありません。

 

あなたの才能は多彩ですね。何を書いても正しい考えであれば問題はありませんね。   

 

 

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事大主義 1/3 

 

>361113 日本習合論①  >匿名希望      20/10/20 AM00 【印刷用へ】 

>共感主義が蔓延している。 >このもっともらしい「共感」の空気の根底には、思考停止を「是」とする調教された意志が潜んでいる。

 

そうですね。  

 

>リンクより

>世を覆っている共感主義の基本にあるのは先ほど来僕が指摘している「多数派は正しい」という信憑です。 

 

個人主義がないのですから、個人判断以外を基準にとる必要がありますね。すると、共感主義になる。 共感は、個人の枠を脱していますね。  

>多数派に属していないということは「変なこと」を考えたり、しているからであって、それは多数派に合わせて矯正しなければならない。 

 

それは個人撲滅作戦ですね。   

 

>そういうふうに考える人がたくさんいる。 >若い人にも多く見かけます。 >でもね、そういうのを「事大主義」と言うのです。 

 

そうですね。’寄らば大樹の陰’・’長い物には巻かれろ’ ですね。  

 

>◆長いものには巻かれろ

> あるインタビューで「じだいしゅぎ」と言ったら文字起こし原稿には「時代主義」と書かれていました。 >なるほど、「時代の趨勢(すうせい)に逆らわない」から「時代主義」なのか。 >インタビュアーは若い人でした。 >熟語は知らないけれど、造語能力はあるなあと思いました。 

 

そうですね。新感覚ですね。  

 

>でも、「じだい主義」の「じだい」は時代じゃなくて事大です。 >「大(だい)に事(つか)える」。 >弱い者が強い者の言いなりになって身の安全を図ることです。 >「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」と同じ意味です。 >マジョリティというのは「大」「大樹」「長いもの」のことです。 >多数派の言うことはその正否を問わずにただ従う。 >それが身の安全である。 >それが当今の作法ですけれど、もちろん今に始まったことじゃありません。 >「事大」の出典は『孟子』ですから、それくらい昔からそういう生き方は存在していた。 

 

日本人も韓国人も事大主義ですね。中国人の政策は、それとは違うようですね。  

 

>◆事実や追求と無縁の和

>そういう生き方もたしかに一種のリアリズムではありますけれども、それにしてもマジョリティであるかマイノリティであるかは、それぞれが主張していることの真偽正否とは関係ありません。  

 

そうですね。  

 

>たしかに、「和を乱さない」ということは集団を安定的に維持するためには必要なことです。 >でも、ものには程度というものがある。 >日本の場合は、その度が過ぎます。 > 僕が「和」をあまり好まないのは、「和」を過剰に求める人は、集団の他のメンバーに向かって「そこを動くな」「変わるな」と命ずるようになるからです。 

 

御法度の政治ですね。   

 

>自由に運動しようとするもの、昨日までとは違うふるまいをしようとする人間が出てくると、たしかに集団は管理しにくくなります。 >だから「和を尊ぶ」人たちは、基礎的なマナーとして「身の程を知れ」「おのれの分際をわきまえろ」「身の丈に合った生き方を知ろ」という定型句をうるさく口にするようになる。 

 

日本人は思考を停止していますから、現状と違った内容が出たら対応のしようもない。現実離れした内容は信じられない人たちばかりである。日本人は心底から現実肯定主義ですね。

 

>◆身の程

>こういう言葉は僕の子どもの頃まではよく使われました(僕もよくそう言って叱られました)。>でも、ある時期から言われなくなった。>1960年代からあとはほとんど耳にすることがなかった。>むしろ「身の程を知らず」「分をわきまえず」「身の丈を超える」生き方こそが奨励された。> 高度成長期というのはまさにそういう時代でした。 

 

あの時は日本人の気が大きくなりまたね。気分・雰囲気の問題ですね。     

 

>人々は「身のほどを知らない欲望」に駆動されて、「おのれの分際をわきまえず」に枠を踏み外し、「身の丈に合わない」大きな仕事を引き受けた。 >国に勢いがある時というのはそういうものです。 

 

かつての大日本帝国のようなものですかね。  

 

> 「早めに自分のキャラを設定して、自分のタコツボを見つけてそこに一度まり込んだら、そこから出るな」というようなことを僕は若い時には誰からも言われたことがありません。 >たまにそれに類することを言う人がいても、鼻先でせせら笑って済ませることができた。 >だって、こちらは現に「身の程を知らないふるまい」をしていて、それでちゃんと飯を食っていたわけですから。 

 

それは現実肯定主義ですね。  

 

 

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