鬼に金棒の国

 

我が国において、学生の暗記物の競争が激烈になるのは、それ相当の理由がある。

日本人は、思考を停止させている。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章の中で表現される。だが、日本語には、時制というものがないので、考え (非現実) の内容は表現できない。これが、思考停止の状態である。

現実の内容のみを表現すると、事の次第 (自然の成り行き) のみを語る人になる。いかにも子供じみている。

このような人は、無哲学・能天気である。これでは、格好がつかない。恰好をつけるための方策が必要である。それが、わが国の教育である。

思考停止の人間に対する教育とは、入れ知恵をすることである。徳目などを暗記物の種本として与えることになる。もちろん、本人の思考力はつかない。かくして、受け売り専門の人間が育成される。いわゆる日本型の知識人ということになる。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

現実の中には、’あるべき姿’ がない。その内容は、常に千変万化している。

あるべき姿’ は、非現実 (考え) の中にある。だが、日本人の頭の中には、非現実の内容は入っていない。だから、現実の中で ‘あるべき姿’ を求めようと努力しています。そして、絶対に時流に流されまいと頑張っています。

 山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」(引用終り)

 

全ての問題は、比較の問題になる。

AさんとBさんの比較も、A国とB国の比較も、問題にすることができる。これらは、現実同士の比較である。これらは、見ることのできる比較である。見ればわかる比較である。オリンピックゲームの成績のようなものである。誰もが認めることのできる結果である。現実の正解は、一つに限られている。序列の意義を大きく称えれば、’So, what? (それがどうした) ということになる。底の浅い見解となる。

それ以外に、日本人には問題にならない比較もある。現実と非現実の問題は、’今ある姿’ (things as they are) と ‘あるべき姿’ (things as they should be) の比較である。これが日本人の問題にならないのは、日本人には非現実の内容がないからである。日本人の判定によれば、見ることのできる内容は ’本当の事’ であり、見ることのできない内容は ‘嘘’ になる。そして、非現実の内容は嘘であり、嘘の内容は考慮の対象外になる。だから、日本人に考え(非現実) の内容はない。

しかしながら、我々日本人にとっても、非現実は実は大切な内容であります。それは、未来における我々の世界を表すことができるからです。非現実の内容は、変わらない。つまり、千変万化することはないから、時流に流されることがない。それで、我々の努力目標にすることができます。努力のむなしさを経験することがありません。

現実と非現実の比較は、批判精神と呼ばれています。世俗の上下争いでは、なかなか双方とも承服できないが、’あるべき姿’ と ‘今ある姿’ の比較なら承服できる人が多いでしょう。’あるべき姿’ の下に人々が結集すれば、離合集散を繰り返す議員の数も少なくなることでしょう。小異を残して大同につけ。(求大同、存小異) 現実に囚われすぎると、日和見主義 (機会主義) の輩になりやすい。

 

夢 (過去) と幻 (未来) が、この世 (現実) と共存する日本人の世界は、むなしい世界です。過去と未来を非現実の世界に入れることができれば、日本人の考えを哲学的にするのではないでしょうか。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切なことを十分深く理解することにより、自己の世界観と意思を他者に明確に伝えることが出来るものと考えられます。英米人は、日本語を話す時でも、日本人特有の閉塞感に襲われることはありません。考え方は、日本語のほかに幾らでもあるからです。我々は、彼らに倣って二刀流の使い手となり、鬼に金棒の国を作りましょう。

 

 

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