吉国幹雄氏 2/2

 

>これが欧米人に言わせると「無口」「無愛想」ということなのだが、実は心が通っていないから(本源性が解体しているから)いちいち言語化しないといけない欧米人なのである。

 

そうですね。言語は、思考と伝達の手段ですからね。欧米人は、低文脈文化の国々住んでいますから正しい言語が必要ですね。 

 

>⇒もっともこれは、深い共認(その多くは規範)関係の成立を前提にしているので、この規範がガタガタの現代において、一語文で済まそうというのは無理があるか…

 

そうですね。一語文は、非言語ですね。

 

>ただ、相手が一語文で発話したときにそれは何も不精なのではなく、信認関係を前提にして発話していると捉えた方がいいのではないか。

 

そうですね。それは、アニマルにも通じる習慣ですね。

 

>聞き直すことで改めて共認関係が強まるだろうから、それをいちいち言いなおさせる必要もないだろう。

 

言語は、思考と伝達の手段ですね。全ての考えは、文章になりますね。文章にならないものは、考えではないですね。

 

> 「お茶!」「お茶?」「そうお茶。」というのはあまりにも淋しい言語生活のようで、潜在レベルでは同化が始まっていると考えて。

 

それは、なあなあ主義ですね。

 

>(もちろん、答え=構造認識を言語化しないということでは決してない)

>●題目の「は」

> 「ぼくはうなぎだ」(うなぎ文)や「象は鼻が長い」、などの「は」の文法的な解釈を巡っては国語学者の間では今でも喧喧諤諤の議論のあるところ。>詳しい文法的な解釈は国語学者達に委ねるとして、ここでは「は」の持つはたらきに注目したい。>我々は無意識に「が」「は」を使い分けているが、「は」の用法は他国語には見られないものである。> (参考『日本語はどんな言語か』小池清治、筑摩書房

 

そうでしょうね。

日本語の ‘私 “は”、ジョン・スミスです。’ は、英語の (I am John Smith.) ですね。

‘私 “が”、ジョン・スミスです。’ は、英語では、アクセントの位置の違いにより表されるのでしょう。(I am John Smith.) 

 

> 小池は「は」の文を「題説構文」と呼び、「は」の前を題目部、「は」の後を解説部とする。>「桜は 春の花だ」を言い換えると、「桜の花は何かといえば、それは春の花だ。」となる。>「桜は」は問いであり、「春の花だ」は答えなのである。

 

要するに、[桜=春の花] ということですね。

 

>「桜は」の御題提示は多義的であり、その答え「が」のように発話者の行為(叙述)に引きずられない。> 「桜が」と言われると聞き手は沈黙して述語を聞くしかないが、「桜は」と言われると、聞き手もその答えに参加できる。

 

そうですね。考えの内容は、人それぞれですからね。

 

>つまり、大和構文の場合には一文を二人で掛け合って完成させることが可能であり、日常的にも容易に行われる。

 

日本語の文法には人称 (person) がないから、作文に人称にかかわる混乱は生じないのでしょうね。

 

>例えば、「恋愛が長続きしないのはなんで?」は、「恋愛が長続きしないのは」でも十分であり、これを「恋愛が長続きしない」であれば主張にすぎなくなる。

> 「桜は」「八分咲きというところだったわ」「道路は」「ひどい渋滞だった」

> 日本人はこのようにしてまどろっこしいようで、実は相手と掛け合いながら一文を作り上げ、豊かな対話(まさに共認言語)を成立させているのである。

 

それでは、個人の考え (非現実) が浮き彫りになりませんね。実況放送・現状報告の内容 (現実) しか、文章にできないでしょうね。日本人の話は、事の次第につきますね。

 

>⇒ただちに、「が」でなく「は」を使えといっても状況や文脈によって無理な場合があるだろうが、例えば「恋愛は」「あなたは」という類のお題を露店に用意しても面白いかもしれない。

 

それは、歌詠みになりますね。

 

>あるいは、というように、共認形成上「は」で切ってマをとるというのも相手の参加を促す手法になるかもしれない。>あるいは、二人または複数で実際に掛け合ってみるのも面白いかもしれない。 

 

連歌のようなものかな。考え (非現実) の内容ではないので、議論の対象にはなりませんね。

 

 

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