比較の問題 2/2

 

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。これは、楽ちんである。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するには、その文章の理解が必要になる。これは、骨が折れる作業である。だから、通常日本人は理解をしないで済ませている。その代わりに、忖度 (推察) を使う。

忖度は、理解に似ているが全く別の代物である。忖度は、聞き手の勝手な解釈である。現実直視になっていない。だから、その内容には、発言者は責任がない。だから、議論にもならない。独りよがりは、どうすることもできない。現実直視が欠けていることを指摘すれば、’だって、本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ という答えが返ってくる。だから、事態は改善しない。ちょうど、戦時中に ‘日本は必ずこの戦争に勝つ’ と言う人の発言を聞いているようなものである。わが国は、理性判断不在の世界である。このような状態であるから、外国人に対して有効な説得力を持たない。 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

 

、、、ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章により表現される。その内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) により表される。これら三世界の内容は、果てしなく展開が可能である。だから、その人の世界観になる。

人生のはじめには、非現実の世界は白紙の状態である。だが、この白紙の状態は、誰しも気になることである。だから、各人が少しずつその内容を蓄えて行く。

思春期になれば、言語能力が飛躍的に伸びるので、英米人は考える人になる。高等教育を受ける適齢期になる。彼らは、自分の哲学を作る為に大学に進学する。他人の哲学を手に入れるために大学に進学するのではない。かくして、彼らは、学士・修士・博士の称号を得る。自分自身の非現実 (考え) の内容を基にして現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主となる。

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 私は、’哲学とは何ですか’ と何回も日本人のインテリから尋ねられた。だが、英米人からそのような質問を受けたことはない。哲学とは、’考え’ のことである。歴史に関する考えは、歴史哲学になる。政治に関する考えは政治哲学、宗教に関する考えは宗教哲学、科学に関する考えは科学哲学、人生に関する考えは人生哲学、などなど。 日本人と英米人には、哲学 (考え) に対する親しみやすさに違いがある。この違いが、わが国の英米流高等教育発展への大きな妨げになっている。その上、わが国特有の序列競争の激しさが加わって学問の本筋への熱意がそがれている。

時制は、英文法にあって、日本語の文法にはない。だから、日本人には非現実の内容が無く、批判精神がない。そして、英米流の高等教育への進学にも意味がない。

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)

 

 

 

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