哲学カフェ

 

>現代意識潮流を探る >307727 あたりまえの言葉や常識を問い直して自考を引出す「哲学カフェ」 >田村正道 ( 53 建築士 ) 15/09/14 AM10 【印刷用へ】 

>「哲学カフェ」や「哲学バー」とうものが広まっているらしい。

 

私は、’哲学とは何ですか’ と、日本のインテリから何回も尋ねられた。哲学とは、’考え’ のことである。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.

歴史に関する考えは歴史哲学になる。政治は政治哲学、宗教は宗教哲学、科学は科学哲学となる。などなど。

 

> 「哲学」といっても出来合いの学問や教え学ぶのではなく、素人同士が、普段当たり前のように使っている言葉や常識を問い直し、揺さぶり、ゆらぎ、実感に合う言葉を探していく場。

 

非現実 (考え) の内容は、哲学になる。だが、日本人の脳裏には、非現実の内容がない。

非現実の内容は、時制 (tense) のある文章の内容として表現される。だが、日本語の文法には時制というものがない。それで、日本人の脳裏には非現実の内容がない。

出来合いの学問や教えを学ぶのは、日本の大学生ですね。思考停止の輩の教育は、これしかない。

 

>プロが答えを教えるのではなく、素人が自考を引き出していくところが面白い!

 

それは、英米の高等教育と同じですね。彼らは高等教育機関に進学して自らの哲学を作ります。そして、学士・修士・博士等の称号を得ています。

自分の考えを引き出してくれるのは、教育の本質ですね。暗記力に頼ると、受け売りの専門家になりますね。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

> 上手く紹介された記事があったので紹介します。 >エキサイトニュース >リンク > より引用します。

>・・・・・以下引用・・・・ >・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・

>哲学カフェでは、いくつかのマナーが守られているという。

>・結論を無理に出そうとせず、時間(今回は休憩込み2時間半)がきたらバチっと終わること。 >・発言をだらだら長引かせないこと。

 

下手な長談義は排除されますね。

 

>・人の発言はちゃんと聞くこと。

 

日本人は、理解よりも忖度 (推察) を好みますね。忖度は聞き手の勝手な解釈ですから、現実直視になっていません。発言者に何の責任もありません。だから、議論にならない。歌詠みになる。

 

>・全否定しないこと。

 

矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。だから、対話・議論が役に立ちます。

 

>・本から引いたような言葉(テクニカルターム)をいきなり出さないこと。

 

そうですね。独り善がりになりますね。

 

> 最後にあげたこのマナーはとても重要だ。>学者やジャーナリストが作った用語は、「ああ、あれのことね」とすぐ話が伝わるようなことも多いから重宝なのだけど、それが対話の出発点にも帰着点にもならないことのほうが多い、というのもまた事実。

 

我々には意思疎通が必要である。ところが日本人には意思がない。その代わりに、恣意 (私意・我儘・身勝手) があって、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) を活用している。

 

>タームは、各個人の体験を既存の図式に暴力的にあてはめてしまうことで、体験の大事な肌理(きめ)や手触りを失わせるもととなることもあるのだ。

>・・・・・・中略・・・・・・・

>11月16日の来場者も言ってたけど、日本語環境はほんの60年前まで、以心伝心、察する、腹芸、空気を読む、でどうにかやってきた、共有性の高い文化だった。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>それにはよさもあるけど、共感とか絆といったハイコンテクストな概念だけでは、被災地の痛みや個人の人生の問題に向かっていくことはできない。>「言葉にして、掘っていく作業」には、またべつのよさがある。

 

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。 

 

 

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