武田邦彦氏 2/3

 

> 先日、私が戸塚宏先生の講演をまとめたものをブログに書きました。>それを「良心的」な読者の方が読まれて、「武田は戸塚先生と同じ意見か?」というメールをいただきましたが、私は繰り返し「戸塚先生とは考えが違うが」と断っています。>でも、読者の方が錯覚されるのは当然で、現代の日本では「意見の違う他人の言うことに耳を傾ける」という人はほとんどいないからです。

 

そうですね。それでは議論になりませんね。

 

> 時に、私は「二重人格者」と呼ばれます。>それは「自分と違う意見の人の考えを理解する」という行動を取るからです。

 

そうですね。現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。だから、楽ちんである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。これは見ることができない。ただの話である。その話を了解する為には文法に従って文章内容を理解しなくてはならない。それは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解を避けて通る。理解の代わりに忖度 (推察) を使う。忖度は理解と似ていて非なるものである。だから注意しなくてはならない。忖度の内容は、聞き手の勝手な解釈であり現実直視になっていない。だから、話者には何の責任もない。議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に話すと、かれは、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発を示すので取りつく島は無い。だから、結果は歌詠みになる。

 

>理解するというのは自分が同じ意見だということではなく、相手の言っていることを理解するということだけなのですが。

 

そうですね。カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

>「人の話を聞かない日本」なのですが、それにも方向性があります。> 「お上が言ったことが本流であり、それに反する意見を言う人は非国民だ」という感情は日本に強く残っています。>そして意見を聞かずにバッシングする、これこそ丸山真男が批判したことでもあります。

 

わが国は、序列社会の国ですからね。寄らば大樹の陰’ ですね。

 

 

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