日本語の弱点 1/2

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

現在、我々日本人は主としてバラバラな単語 (小言・片言・独り言) を使って交信している。こうした言語環境は和歌・俳句にも利用されて高い芸術性を生み出しているのであるが、 グレゴリー・クラーク氏の指摘にある通り‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’という困った状態を生じている。自己の考えを表現できない日本語の特性を深刻に受け止める議論は今のところ存在しない。だが、この見過ごされている我々の弱点が、国際社会における日本人のアキレス腱になっていることを強調する必要がある。この点を改善できれば我々はさらに国際社会に対して重要な役割を果たすことができると考えられる。 

現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。だから、楽ちんである。見ることのできる内容は、本当のことである。見ることのできないものは、嘘である。我々は、騙されないようにいつも努力している。我々は、’うそ・本当’ の世界に住んでいる。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。これは見ることができない。ただの話である。だが、この場合は ’見ることができない’ と言って棄却することはできない。その話を了解する為には文法に従って文章内容を理解しなくてはならない。それは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常 ‘理解’ を避けて通る。文法に従って文章内容を理解することはない。

 

日本人は、理解の代わりに忖度 (推察) を使う。忖度は理解と似ていて非なるものである。だから注意しなくてはならない。忖度の内容は、聞き手の勝手な解釈であり現実直視になっていない。だから、話者には何の責任もない。その内容に食い違いが生じても議論にもならない。現実直視になっていない。独りよがりになっている。このことを忖度の主に話すと、彼は、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発を示すので取りつく島が無い。

ここは我々にとって非常に難しく重要なところである。理解は文章内容の現実直視である。その文章は実在し、その文章の内容は非現実 (考え) である。

非現実の内容を容認し、それを現実の内容に変換することができれば、その人は創造的な仕事をしたことになる。だから、政治家も科学者も一般の人も知的な励みに携わるべきである。そのためには非現実の内容を取り扱う英米流の高等教育が必要である。

 

忖度は現実無視である。当該の文章内容の存在を無視する。忖度は自由な発想であるが、現実離れがしているので、当人の想いは現実を動かす力にはならない。空想・妄想になる。漫画・アニメの大国になる。我々の努力の結果は歌詠みに終わる。ああ、むなしい。かくして、日本人の励みは音楽・絵画・造形美術などの非言語の芸術の世界に入ってゆく。日本人には、実在する非現実 (考え) の文章内容が容認できない。心ここにあらざれば視れども見えず。だから、我我には大切な文章理解の努力が抜け落ちている。そして、哲学 (考え) にはならない。日本人の無哲学・能天気の状態は大学内においても永続している。

 

非現実 (考え) の内容は時制 (tense) のある文章内容として表現される。その内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の中で表現される。これらの内容は、世界観 (world view) と呼ばれるものである。その三世界は生まれた時には白紙の状態であるが、年を経るにしたがって誰しもその白紙の状態が気になるものである。そこで、各人がその内容を自主的に埋めて行くことになる。三世界の内容は、何処までも展開可能な状態になっている。思春期になると、言語能力が急速に発達するので、人は ‘考える人’ になる。この時期に英米人は英米流の高等教育機関に進学して、自己の世界観を完成する足掛かりを得ている。政治に関する考えは政治哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学、宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学、などなどになる。その研修の段階に従って、彼らは学士・修士・博士の称号を得ている。博士号が無ければ研究者としては認められない。修士号が取得できなれければ教員として長くは勤めていられない。アメリカ人の社会は学歴社会である。

 

 

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