平井宏明氏

>毎年8月になると、マスメディアやジャーナリズムは、先の大戦(アジア太平洋戦争1937-1945)の「悲惨さ」について多くを語り、悲惨な戦争は繰り返してはいけないと訴えます。

 

そうですね。大戦の悲惨さの話は昔から語り継がれていますね。

 

>ところが、その戦争の「責任・責任者」となると、ほとんどそれに触れることをしません。

 

そうですね。責任の話は、日本人は苦手ですからね。日本人の責任は義務だけで、意思の自由が入っていないから、責任は牛馬の苦役のようなものになる。意思の無い責任者は役に立たない。責任者の苦闘は無為無策に終わる。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

 

>その理由は、国家指導層、天皇・皇室、靖国神社、右翼国粋主義者、敵国だった米国(現在は同盟国)に忖度し、及び腰になってしまうことにあります。 

 

日本人の忖度は、絶望的ですね。民族の癌。

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要がない。だから、楽ちんである。

非現実 (考え) の内容は、頭の中に存在する。それは見ることができない。ただの話である。その話を納得する為には、文法に従ってその文章を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる作業である。だから、日本人は、通常理解はしない。その代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度は理解と似ているが、全く違った内容であるから注意を要する。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。話の内容に食い違いが存在しても、それは議論にはならない。聞き手の単なる独りよがりになる。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘すると、’だって私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発して取りつく島がない。だから話が歌会のようなものになる。

 

>これでは大きな偏りのある報道にならざるをえません。

 

そうですね。

 

>あの大戦による「悲惨さ」について、国家指導層、天皇・皇室、靖国神社、右翼国粋主義者、米国の指導層に「責任」があることはあまりにも明らかです。

 

そうですね。しかし、わが国のだら幹 (堕落した幹部) には、その大切な意思がない。無意志の人間には責任がない。兎角この世は無責任。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意というものがないからである。

 

>しかも重大な「責任」です。 >日本人だけでも300万人以上を死に追いやり、日本国家自体をも滅亡の崖っぷちまで追い込んだ。 >そして周辺諸国にも多大な被害をもたらした。

 

そうですね。被害甚大な自然災害のようなものですね。                                                                                                                                              

 

>戦争の「悲惨さ」を伝えることはもちろん重要。 >同様に、その悲惨さを招いた「責任」を追求(追及)し明らかにすることも、マスメディアやジャーナリズムの重要な使命のはず。

 

そうですね。意思のある人には責任がある。だが、日本人には意思がない。日本人にも意思を持たせよう。意思のある人には加害者意識がある。罪の意識もある。それが、原因究明の執念になる。

意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。それで、日本語の脳裏には未来時制がない。だから、日本人には意思がない。

日本人には意思 (will) がないが、恣意 (self-will) がある。意思は文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラな単語のまま (小言・片言・独り言) で存在し、文章にならないから意味がない。日本人には意思疎通が無く恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。議会が通一遍となり談合 (腹の探り合い) が重要となる。意思決定 (理性判断) が無く、恣意決定 (盲目の判断) がある。

 

>「悲惨さ」を示すだけでは戦争の抑止には不十分です。

 

そうですね。浪花節は感情的で、政治哲学にはならない。

 

>「責任」を明確にすることで、真に戦争の阻止につながると考えます。 

 

同感です。政治家も有権者も責任感のある人間になることが必要ですね。        

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」   

 

 

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