日本の問題 1

 

見ることのできる内容は本当のことである。見ることのできないものは嘘である。見て来たような嘘を吐く人は悪人なのか。

現実の内容は見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要はない。楽ちんである。

現実ばかりで非現実 (考え) というものがなければ、’現実’ という言葉も必要ない。現実には存在しないという考えがなければ、’存在’ ということには意味がない。

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being”[存在] とか “reality” [現実] のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。 (引用終り)

 

非現実 (考え) の内容は見ることができない。ただの話である。話の内容を了解するためには文法を理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解はしない。日本人は、理解を忖度 (推察) で代用させている。

カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen)氏は、<日本/権力構造の謎・上> (The Enigma of Japanese Power) の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

要するに、日本人は理解という言葉を使って忖度 (推察) を要求しているのですね。これでは、相手の理解は得られない。忖度は理解とは非常に違ったものであるから気を付けなくてはならない。

忖度は、聞き手の自分勝手な解釈である。現実直視になっていない。話し手との内容に食い違いがあっても話し手の責任にはならない。議論にもならない。

現実直視になっていないことを指摘すると、忖度の主は、’だって、私は本当にそうだと思ってのだから仕方がないではないか’ と言って反発を示す。だから、議論にもならない。独りよがりのままである。歌詠みのようなものか。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上> の中で下記の段落のように述べています。(p.54)

、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 

西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)