跳ぶ

(略)

>  最初のうちは、ただぼーっと見ているだけです。>自然をぼんやりと観察している。     

 

そうでしょうね。

 

>でも、そのうち、何かの弾みで、子供の目がきらりとする瞬間がある。>それは「パターン」を発見したときです。

 

新発見があったのですね。

 

>  自分の前に展開しているランダムな自然現象の背後に、実は法則性があるのではないか・・・というアイディアが到来したときに、子供の目がきらりと光る。>そういうものなんです。

 

そうですね。自己の世界観獲得の始まりですね。

 

>一見するとランダムに生起する事象の背後に数理的な秩序があるのではないか、という直感が到来する。

 

直感は洞察力ですね。

 

>雲の動きでも、虫の動きでも、波の動きでも・・・ずっと観察しているうちに、そこに繰り返しある「パターン」が再帰しているのではないかというアイディアがふと浮かんでくる。>そうするといきなり集中力が高まる。

 

そうですね。興味津々ですね。

 

>もし自分の仮説が正しければ、「次はこういう現象が起きるはずだ」という未来予測が立つからです。>果たして、その予測通りの現実が出来するかどうか・・・子供だって、そのときは息を詰めるようにして、次に起きることに意識を集中させます。

 

ご成功を祈ります。

 

>>学校教育で教えるべきことは、「跳ぶ」ことの喜びだと先ほど申し上げました。>>目の前に散乱している断片的な情報や事実を観察しているうちに、すべてを説明出来る仮説を思いつく。

 

そうですね。科学に関する考えは、科学哲学になります。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.

 

>>おお、ついに統一的で、包括的な真理を発見したと思って、欣喜雀躍する。

 

新発見ですね。めでたいことです。

外人は、 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) と言っていますからね。

 

>>論理的思考が導くならば、それがどれほど法外な「コロラリー」であっても、それを検証しようとする。>>それが「跳ぶ」ことです。

 

‘跳ぶ’ とは、自己の世界観を延長することですね。

 

>  でも、「跳ぶ」ためには勇気が要ります。

 

そうですね。日本人は、意気地なしですからね。優柔不断・意志薄弱であることが常のようです。

 

>ある程度までは論理的に思考しながら、最後に「そんな変な話があるものか・・・」と言って、立ち止まって、論理が導く結論よりも、常識の方に屈服してしまう人たちがいます。>彼らに欠けているのは、知性というよりは勇気なんです。

 

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がない。仕方がないので、無為無策でいる。ここでとん挫する。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)

意思は未来時制の文章内容であるから、文法に時制 (tense) というものが必要です。しかるに、日本語の文法には時制がない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

 

>  今の日本の子供たちに一番欠けているのは、こう言うと驚かれるかも知れませんけれど、知力そのものではなくて、知力を駆動する勇気なんです。

 

それは、意思がないということでしょうね。だが、日本人には意思はなくても恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意を鍛えて意地・根性・大和魂とするのがわが国の習慣であります。これは、精神主義ですね。

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇) 

 

>自分の知力に「跳べ」と言い切れる決断力なんです。

 

日本人には、意思がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。

意思は文章内容になっているので意味があるが、恣意はバラバラな単語のままで存在し文章にならないので意味がない。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

日本人には、意思疎通が無くて恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。

対話が無くて、談合 (腹の探り合い) がある。

意思決定 (理性判断) が無くて恣意決定 (盲目の判断) がある。

説明責任が取れなくて過ちの処理にけじめがつけられない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

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