下僕

 

>312432 日本マスコミの「自主規制」とは、自分たちが「政権の監視役」ではなく、下僕であるという告白  >平野令 HP ( 壮年 建築設計 ) 16/02/18 PM06 【印刷用へ】 

>総務大臣の「電波停止」への言及が世間を賑わしているが、放送法が謳う『政治的公平性』とは、「権力にへつらわない」という規範ではなかったのか? 

 

権力にへつらってはいけませんね。

 

> 毎日新聞が『真相 海外メディア東京特派員らが語る 日本「報道の自由」の危機』リンク > と題して、海外からの特派員のコメントを取り上げているが、自らの見解として堂々と主張できていないところが情けない。

 

わが国には、個人主義がない。個人の主張を社会が擁護していない。個人の意見は無いも同然である。

 

> 劣化した政治家と、それを知りつつ媚び諂うマスコミの関係は、非常時の報道統制なんかよりも、ひどい亡国前夜の姿なのかも知れない。

 

そうですね。この種の恥は日本人には感じられない。それは、日本人にはリーズン(理性・理由・適当) がないからです。

 

>このままいくと、ネット規制も杞憂ではなくなるか? 

 

そうですね。わが国は、けじめのない社会ですからね。

 

> ===以下、晴耕雨読さんリンクより引用=== > 「日本人が「自主規制」と呼ぶ状況は外国から「集団的自己検閲」と呼ばれる。:山崎 雅弘氏」 >リンク

>海外メディア東京特派員らが語る 日本「報道の自由」の危機(毎日夕刊)リンク  > 英経済誌エコノミスト』記者デビッド・マクニール「安倍政権を批判したキャスターがそろって去るのは偶然とは思えないね。>背景に何があったのか、団結して3人【国谷、古舘、岸井】で会見したらどうか」 

 

それは名案ですね。

 

> 「利用価値のあるメディアの取材には応じ、批判的なところには圧力をかけるアメとムチ戦略。>そうやってリベラル勢力の排除を徹底しているのが安倍政権」 

 

そうですね。リーズンがないから議論は避けたがりますね。

 

> 仏紙『ルモンド』東京特派員フィリップ・メスメール「フランスだったら、与党が公然と放送局幹部を呼び出しただけで問題化するね」

 

そうでしょうね。国が違えば、反応も違うのですね。

 

> 「外国人記者外しは、逆に言えば、日本人記者の質問は怖くないと政権・与党になめられているということ。>それに対して、なぜもっと怒らないのですか」 

 

日本人記者の質問は怖くはないですね。それは、日本人には批判精神がないからです。

 

> 「新三本の矢のゴールは、どうみても非現実的。>外国人記者が質問できたら、ゴールが間違ってませんかと聞いたのに」 

 

外国人記者外しの必要性は目に見えていますね。

 

> 総務大臣が電波停止を口にして恫喝しても、テレビ局は聞こえないふりをして平然と無視するのが、普通の民主主義国だろう。 >現実には電波停止などできない。 > 政府に批判的なテレビ局を電波停止にすれば国際的なニュースになり、安倍政権の信用が失墜する。 > 特定秘密保護法からの流れで俯瞰的に報道される。

 

そうですね。それは悪質な嫌がらせですからね。

 

>アルジャジーラ英語版が、安倍政権のメディアへの締め付け強化とメディア側の過剰な自粛についての長い特集動画を公開している。 >リンク  

 

安倍政権とメディアの関係は、’魚心あれば水心’ ですね。日本人には、何が悪いのかほとんどわからない。

 

> 古賀茂明氏のインタビュー、報道の自由度ランキング低下、福島原発事故報道規制特定秘密保護法記者クラブ問題など。

 

報道の自由度ランキング 日本 67位 (2019) 国際NGO国境なき記者団’ 

 

>アル・ジャジーラが、2015年5月に報じた日本の報道状況に関する動画ニュース。> 特権的な「記者クラブ」が報道を牛耳り、自己検閲が日本では一歩進んで「集団的自己検閲(コレクティブ・セルフ・センサーシップ)」になっていると指摘している。

 

日本人は、先進国としての恥を知らないのですね。日本人にはリーズンがない。だから、リーズナブルの答えが出せない。これは、教養不足という事でしょうね。

 

> 「権力への迎合」を「自粛」や「忖度」などのソフトな言葉で言い換え、そこに逃げ込むような諦めの風潮が、メディア内で広がっているように見えるが、日本人が「自主規制」と呼ぶ状況は外国から「集団的自己検閲」と呼ばれる。

 

迎合は自粛・忖度と言い換える。敗戦は終戦、占領軍は進駐軍と言い換えるようなものか。日本人の得意芸ですね。

 

> 自分たちは何をしたいのかという主体性を放棄が不可解だと見なされている。

 

そうですね。日本人には世界観がない。だから、’あるべき姿’ (things as they should be) がない。批判精神 (critical thinking) がない。これらが主体性放棄の正体であります。

 

> >島薗進 『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』 >>リンク   >>中島岳志島薗進。 >>明治維新以後の、ショナリズムと宗教の関係をどう捉える? >>「戦前回帰」が懸念される昨今、戦前の全体主義と現在の政治状況がどう関わるのか、それぞれの立場から論じ合っている

 

 

 

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