意識や姿勢 1/2

(略)

>これは具体的に新日本人と旧日本人のビジネスに対する意識や姿勢がどのように違っているのか、行動の傾向によって意識の違いを示すものです。

 

都合により旧日本人の方だけを紹介させていただきます。

 

>★旧日本人★

>メンタリティー

>【集団依存】 > 会社にぶら下がっている。>どうせぶら下がるなら「寄らば大樹の蔭」と考えている。 >数を頼む 

 

そうですね。日本人は心理的な群れをつくって暮らしていますね。

 

>【絶対平等主義】 >パフォーマンスの低い人の報酬や労働条件に、全員が「平等に」合わせるという「平等主義」 > 「出る杭は打つ」ものの、決定的な敗者も作らない  

 

そうですね。序列が確定すれば、それで良しとすることが多いですね。

 

>【他律性】 > 自律性がなく、周囲の意見に従って自分の態度を決定する。 >だから思考停止していても不便を感じない  

 

これは、心理的な群れの習性ですね。一羽が外敵を発見すれば、群れは総出で警戒態勢に入る。安全に対する一羽の注意力は少なくて済みます。

 

>【論理性欠如】 > 論理とかセオリーに従わず、感情的、感覚的判断を行う >自分にとってメリットがあるか、自分の立場にプラスかどうかという近視眼的な基準で物事を判断する

 

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。意思がなければ、意思決定はできない。

意思決定 (理性判断) ができないから、恣意決定 (盲目の判断) をする。だから、気分・雰囲気に左右されるものとなる。

 

>【目的意識の欠如】 > 明確な目的意識を持たず、集団への依存心が強いので、自己を超克する努力などしない。 >飲み屋で同僚とぼやき合って、マイナス方向のエネルギーを蓄積していく。

 

世界観がない。遠い未来に目的地を見定めていない。目的 (非現実) がはっきりしなくても手段 (現実) だけがはっきりしている。そこで、手段の目的化が起こる。むなしい努力が積み重ねられている。

 

> 【「知」に対する無感覚】 > 「知」の決定的な重要性を意識していない。 >だから洞察力も判断力も磨けないし、自分で物事を考えようとしない >組織的な判断(稟議)を行い、責任を回避する >自分にとってメリットがあるか、自分の立場にプラスかどうかという近視眼的な基準でしか物事を判断しない

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章内容として表現される。その文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) により示される。人生の始まりにはこれらの三世界は白紙の状態であるが、白紙の状態は誰しも気になる所である。そこで人々は考える人になる。各自が人生経験の中で自分自身の考えにより白紙を埋めてゆく。各世界の内容は何処までも展開が可能である。これが世界観 (world view) である。自己の世界観 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、それは批判精神 (critical thinking) の表れとなる。

英文法には、時制がある。だから、英米人には世界観がある。そして、批判精神を表すことができる。尊敬される。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、批判精神がない。日本人の比較は、現実対現実になる。だから、どんぐりの背比べに終わる。わが国は序列社会でできているから目上の人の内容をただただ垂れ流しにする。だから、わが国にはマスコミにも有力紙が存在しない。  

日本人には意思がない。だから、責任を負うことはできない。意思の無いところには方法 (仕方) がない。意思の無い人の責任というものは義務ばかりがあって牛馬の苦役のようなものになる。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

 

 

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