国語力 1/3

 

>329078 無知な頭で評論することに価値を置く現在の国語教育  >本田真吾 HP ( 壮年 建築家 ) 17/08/26 PM00 【印刷用へ】 

>国語力を鍛えるとは、対象への同化力を鍛えること。>つまり、題材の文章から、作者はどんな状況で何を考え?どう判断したのかを、相手の置かれた状況に同化して読み取ろうとする中で、それに必要な語彙も論理性も身についていく。

 

それは忖度 (推察) のようなものですね。

 

>ところが現代の国語教育は、無知な頭で評論だけすることを推奨し、同化に必要な謙虚さを教えない。

 

日本人は、文章の理解が不慣れのようですね。 

 

>その結果、近代思想の価値そのままの、主張するだけで何も生み出せない人間を量産して行く。

 

日本人は理解というものが無くて、暗記力でごまかしていますね。

私は、’哲学とは何ですか’ と日本人のインテリに何度となく尋ねられた。’哲学とは、考え (非現実)’ のことである。きっと、その人達は大学で自己の哲学を完成させてこなかったのでのでしょうね。

各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.  政治に関する考えは政治哲学になる。宗教・歴史に関する考えは、宗教哲学・歴史哲学になる。科学は科学哲学、人生は人生哲学、などなどとなる。  

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) 

 

> 以下引用 >/////////////////////////////////////////////////////////////// >近年の初等国語教育への疑問 > (リンク)

> 先日ある先生から伺ったのですが、最近、小中学生の国語力が、極端に低下しているのだそうです。>これは文部科学省の小学校教育指導によるもので、国語教育において、子供たちに読解力をつけさせることよりも、感想を述べることに比重が置かれるようになったことが理由なのだそうです。

 

昔も小学校で感想文は書かされましたね。

 

>どういうことかというと、昔は、国語教育では、文字の読み書きもさりながら、読解力を付けさせることに比重が置かれていました。>ですから子供たちは、まず、教科書に書かれた文を理解し、その理解を助けるために文法や漢字を習いました。

 

現実は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。正解は一つである。楽ちんである。

 

> 文には必ず書かれた目的があります。 >ですから国語教育は、子供たちが、その筆者の意図をいかに汲みとることができるようになるかが問われたのです。

 

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。その内容を知るためには、文法に従って文章を忠実に理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解はしない。その代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度 (推察) は理解と混同されているから要注意である。忖度は読者・聞き手の勝手な解釈であるから、筆者・話し手に何の責任もない。お互いの内容に食い違いがあっても議論にもならない。ただの空想・妄想のようなものである。

忖度の主に現実直視になっていないことを私が指摘すると、’だって私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と猛反発を食らうので、取りつく島がない。かくして、独り善がりは治らない。彼は孤高の人か。 

 

>ところが現代の初等・国語教育は、子供たちはすでにあらゆる知識を持って生まれてきているという仮説に基づいています。>ですから国語教育においても、その文を書いた筆者がどのような意図を持って書いたかよりも、そこに書かれたものについて、子供たちが何を感じるか、という視点が第一にされているわけです。

 

国語教育で、理解よりも忖度に視点がおかれているということですね。忖度は空想か妄想か雑念とかいうものでしょうね。

 

>と、このように申し上げますと、「それはそれで良いのではないか」と思われるかもしれませんが、十分な読解力が育っていないうちに、「文から何を感じるか、どう思うか」と問われれば、いきおい子供たちは、その文の全体の趣旨ではなく、文章の一部や単語を切り取り、その切り取った部分を、自分目線で「評価」や「評論」をするようになります。

 

それは理解にならないですね。歌詠みのようなものですね。現実直視をして論旨の理解をすることが第一ですね。

 

 

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