国語力 2/3

 

> 早い話、たとえば、 「私は琵琶湖に行ったとき、その風景の美しさに感動し、ひとつの和歌を思い浮かべました」という文章があったとすると、昔の教育なら、そもそも筆者はなぜ琵琶湖に行ったのか、琵琶湖の風景はどのような点が美しいのか、そこから感動する心とは何か、筆者はどのような和歌を思い浮かべたのだろうかといった、文意から様々な事柄を察しながら、洞察力や情緒性を養おうとし、そのために必要な文法力や読解力が育成されていたわけです。

>ところが近年の初等教育では、読んで君はどう思うかに力点が置かれます。 >すると、 「琵琶湖に行ったから感動したのではなく、そもそも行く前に調べるべきだったのではないか。 「何をもって美しい風景といえるのか、琵琶湖のどこが美しいのかが書かれていないからわからない」 「和歌を思い浮かべるという発想が古い。私なら映画のシーンを思い浮かべます。」あるいは、 「感動したいなら、私はエグザイルのコンサートが良い」 「全体を見れば美しい風景でも、近くにはきっと虫が飛んでいてきも〜い」 「和歌を思い浮かべたのは気取っている。J-POPで良いじゃん」 > 要するに、文章の全体ではなく、文の部分を切り取って、その部分に反応するようになるわけです。 

 

それは、お題をいただいて、和歌や俳句を発想するようなものですね。わが国伝統的な学問の手法ですね。

 

>そして、それがいまどきの「国語力」になっているわけです。

 

古典的な国語力でしょうね。現代社会では、生活に支障をきたす国語教育でしょうね。

 

>つまり、児童たちが教科書や筆者の書いた文章を評価しているわけです。

 

論旨の理解が不十分であると、評価の内容も正確にはなりませんね。

 

>なるほど考えてみれば、いまのテレビなどのメディアがそうです。 > 事件や事故の報道には、必ずコメンテーターの評論や評価が付属します。 > 視聴者は、その評論や評価を視て、それをまた評価し、感想を述べます。 > 腹が立つとか、納得できるとかです。 >それを友達に話すと、その評価をまた、友が評価評論します。 > 政治関連なら、「総理がこのような発言をしました」という報道自体が、総理の見解の全体像ではなく、部分を切り取った形で行われます。 >つまり報道そのものが、バイアスのかかった評価評論になっています。 >そしてその報道を、コメンテーターたちが、口々に論評します。 > 論評には、オヒレヒレがついて、総理の意向や発言の趣旨などどこへやら、全然別な意味の発言のように印象づけられます。 > 視聴者は、それを観て、また評論・評価しています。 >いまの日本は、まるで「一億総評論社会」です。

>そうなるしかないのです。

 

そうですね。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

 

 

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