かんながらの道

 

> 『かんながらの道と古事記

> 本来キリスト教一神教世界(西洋思想)はプラトン的な観念論世界であり、そこでは価値や真理とは歴史的に超越的なものとして成立している。 >ところが日本では古事記の昔から日本の精神的構造の中に超越的な動機は含まれていなかった。

 

そうですね。哲学 (非現実・考え) は超越的ですね。無哲学 (現実) には超越的なものは含まれていない。日本語には、非現実 (考え) の内容を示す構文は存在しない。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

 

>その後の日本の歴史に外から超越的な儒教や仏教が入ってきたが、日本的な超越的でない『かんながらの道』の伝統を、やはり根本的に変えることは無かった。[随神の道 (かむながらのみち): 神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道] 

 

そうですね。自分に意思がなければ ‘神慮のまま’ ですね。日本人に意見が無ければ、アメリカ人の言うがままになるということなのかな。

ヒンズー語は印欧語でありその文法には時制がある。仏教の教えには、非現実 (考え) の三世界がある。前世・現世・来世の三世界にはその内容がある。インドでは庶民も瞑想に耽っている姿が多くみられる。そしてその内容を発言する。’あすこの家に今度生まれた赤ん坊は、死んだ我が子の生まれ変わりだ’ などと主張する。

 

> 逆に儒教や仏教の方がその超越的な本質部分を変えて、物事をありのままにそのまま受け入れるという日本的な『かんながらの道』に変質しているのです。  

 

そうですね。日本語には時制がない。だから、非現実 (考え) の世界は想定外になっている。日本人には ‘随神の道’ しかない。

 

>その意味で戦時中の知識人も、はるか昔の『かんながらの道』につながっていて、千年以上も実生活を超越することが出来なかった『思想』や『哲学』『宗教』が、超越性を獲得できないのは当然だった。

 

そうですね。日本語は、現実の内容しか伝えませんからね。だから、日本人は実生活を超越することはできませんね。これは子供の精神状態と似たようなものです。

 

> 国学』において日本を代表するものとしての『かんながらの道』は知識人の戦争協力のみならず、日本の近代思想を内側を解くかぎであり、その意味では本居宣長はその意味では正しかった。

 

自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。意思の無いところには方法 (仕方) がない。仕方がないから無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)

 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。

、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり) 

 

政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力の正体は、’無哲学・能天気’ ですね。無哲学であっては政治哲学もない。だから、皆が政治音痴になっている。これは決して独裁政権の弾圧によるものではない。政治音痴は日本語社会のあらゆる場所から発現しているのでる。日本人には意思がないから仕方 (方法) がないのである。日本人の戦争協力も近代思想も仕方がないのである。これは随神の道である。

 

 

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