一億総ざんげ

(略)

>超国家主義と日本の知識人、日本浪漫派と京都学派』

> 日本の凶暴なファシズムと無謀な戦争の積極的な協力者(社会層)とは、小工業主、小地主、学校教員、下級官僚、郵便局長や町内会長、消防団長、僧侶や神官、米穀店や酒屋の店主など、いわゆる中間層であった。

 

戦争の協力者は中間層であったということですね。

 

>これ以外の、中間層のもう一方のグループである都市サラリーマン層、文化人やジャーナリスト、教授や弁護士、一部学生などのインテリ層であるが、この層が敗戦後に主張したのが有名な『一億総ざんげ』である。 

 

一億一心で戦争に励んだ後は、一億総ざんげですね。考えの個人的な違いは無視されていますね。考えそのものが無ければ、個人差も問題にはなりませんね。

 

> 戦争以前(たぶん、戦争後も)には知識層と一般大衆の精神的なみぞは深い。 >知識人の責任を、1億人に埋没させて考えるのは明らかな誤魔化しである。

 

教養のあるなしにかかわらず 『一億総ざんげ』ですね。要するに日本人には教養は実生活に役立たずであるという事か。日本人の誰にも責任は無いという事か。意思のある人には責任がある。誰にも意思はないので誰にも責任がないという事か。 とかくこの世は無責任である。 

意思は未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には未来時制がない。だから、日本語の脳裏には未来時制がなく、日本人には意思がない。意思がなければ方法 (仕方) が無く、責任を持たせるわけにもゆかないか。うやむやか。反省の行われる余地もない。けじめのない社会である。

 

> 『国民はだまされていた。』とか『国民は何も知らなかった。』は国民の大多数には通用しても知識層には通用しない。 

 

政治音痴であれば、『騙されていた』、『何も知らなかった』しかないですね。要するに、まともな考えが存在しないという事か。

 

> 大衆は知ることが出来なかったかもしれないが、知識人は『知ること』が出来た。 >後者の場合本当に何も知らなかったのなら、それは意識的に『知ろうとしなかった。』のである。

 

薄々知っていたのでしょうね。政治音痴では知識があってもどうにもならない。

 

> 知ろうと思いさえすれば、満州事変以後のファシズムの暴走と天皇神格化の時代錯誤はわずかばかりの注意力さえあれば誰の目にも明らかであり、それなら知識人の『知らされていなかった。』はまったくの誤魔化しである。

 

意思がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。理解がなくて忖度 (推察) がある。現実直視ができなくて空想・妄想が盛んである。

 

>知識人にとっては知る材料は、見事に、完全に、日常茶飯、目の前に遺憾なく出揃っていた。 >だから『知らされていなかった』は責任逃れの誤魔化しで真実ではない。

 

そうですね。心ここにあらざれば、視れども見えず。誤魔化さざるを得ませんね。

 

> 武者小路実篤は敗戦後に『私は騙されていた』といった。 >そうかも知れない。 >しかし同じ情報からでも『だまされなかった』人たちがいた。

 

それは個人の知的能力の差でしょうかね。

 

>「だまされていた」のは、だまされていたいと自ら望んだからである。> 我々の問題は、誰かが『だまされていた』ことでは無くて、日本の知識人がなぜ自らだまされたいと望んだかということ(原因となったA級戦犯の思想や哲学)である。

 

それは 『随神の道』だからでしょう。自己の意思を働かせることを拒む日本人固有の性質でしょう。自己の意思が無ければそのようにしかならない。  [ 随神の道 (かむながらのみち): 神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道 ] 

自分の考えの内容に自信がなかったからでしょうね。‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)  だから、無哲学・能天気の性質は恐ろしい。危険を察知しても、それを避けられない。

 

> 日本の破滅の戦争に誘導した知識人の精神的な本当の主張(戦争責任)とは何か。

 

それは、’かんながらの道’ ( 随神の道 (かむながらのみち): 神代から伝わってきて、神慮のままで、人為を加えぬ日本固有の道 ) でしょうね。

 

> 戦争反対を主張出来なかったことは、直ちに『戦争賛美しか出来なかった』ことにはならない。 >特別な場合を除けば沈黙することは最後まで出来たのである。

 

そうですね。 自分に確たる考えがないから、相手に迎合するのでしょうね。  

 

(略)

 

 

 

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