理屈

 

私は大学生の頃に先生に ‘理屈を言ってはダメだ’ と何回も言われた。’理屈なら子供にでもわかる’ とのことであった。それほど便利な ‘理屈’ がどうして我々の社会では駄目になるのかが私には分からない。ひとを説得するのにこれほど重宝なものは無いはずである。だのに、この理屈禁止を不思議がる人も私の周りにいないので黙って過ごしていた。しかし、今でも私のこの想いは変わらない。

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

 

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)

 

日本人には怒りがあって、理屈がない。考えが文章の内容として表現されないから意味がなく、矛盾もない。だから、表現できるものは自己の感情だけになっている。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。

意思のある所に方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.  日本人には意思がないので、おとなしい。仕方がないから無為無策でいる。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。

‘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず’ 山本五十六 (やまもと いそろく)  

動かぬ人間を動かすために考えられたのがわが国の精神修養である。武芸と徳目を通して活発な行動をする日本人を育成する方法である。武芸の上達により機敏な動作をする人間は育成されるが、徳目の学習 (暗記) では、理性判断は得られない。リーズナブルな答えを得るためには、自分自身の考え (哲学) と判断が必要である。さすれば、批判精神 (critical thinking) を持った個人が育成される。

 

何事も比較の問題である。現実と非現実 (哲学) の内容を批判して結論を出せば感心される。現実と現実の内容を批判して論ずれば世俗的になる。日本人の得意な序列順位の話になる。批判精神のないマスコミは、上意の内容をただ垂れ流すことに専念するから、わが国には有力紙は存在しない。我が民族は無哲学・能天気であるから、我々の励みは、’各人に哲学は必要である’ (Everyone needs a philosophy.) という目的には達しない。無哲学の人間の消滅が眼中にないことが、我が民族の最大の文化の盲点になっている。

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)  

 

 

 

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