言葉と動作 3/6

 

> 形からはいる。 

 

これは、日本文化の成り立ちでしょうね。

 

>形から始まり、形で終わる。 >礼で始まり、礼で終わる。 >挨拶に始まり、挨拶に終わる。 > 動作に対する教育は、形にある。

 

つまり内容 (哲学) がなくて、形がある。言い換えれば、非現実 (教義・考え) が無くて、現実 (儀式・作法) がある。

 

>つまり、挨拶や礼儀、言葉遣いといったことである。

 

日本人の礼儀作法や言葉遣いは世俗的な序列観念によるものですから、外国人には通じないでしょうね。日本人としては、序列なきところに礼儀なしです。  

 

>ごっこや相撲、ボール遊びのような事を通じて社会性を身につけていくのである。 >ただその場合でも、大人は、なるべく干渉しない方がいい。 >子供は、遊びの名人なのである。

 

そうですね。子供は遊ばないといけないですね。それが大切な人生の学習に役立つのですからね。

 

>遊び方が解らない時にかぎり、はじめだけ、やり方を教えたり、方向性を与えればいいのである。 > 一連の動作をやってみせる。 >それを相手にやらせる。 >その上で、習慣や癖になるまで、同じ動作を繰り返させるのである。 

 

習うより慣れろ’ ですか。Practice makes perfect.

 

>やって見せ。やらせてみて。誉めてやらねば、人はおぼえじ。 

 

日本人には意思 (will) がない。だが、意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.

 

> 考えさせない教育も必要である。

 

非言語 (音楽・絵画・造形美術など) の学習は、それに相当しますね。

 

>考えるからできない。 >考えてしまうから、覚えないと言うような学問もある。 

 

結果は成果そのものを示していますね。現実の成果のそのものの価値は、それ以上でもなければ・それ以下でもない。 

 

> 一連の動作そのものには、言葉で表せるような意味はない。 >あるのは、形である。 

 

そうですね。現実の内容が全てですね。

 

>また表現するにしても、象徴的な表現しかできない。 

 

抽象的な内容は、観察者の忖度 (推察) にその解釈が任せられている。

 

>そうすると、言葉で理解してしまうとかえって判断の邪魔になる。 >故に、直接動作を見習うことによって覚える。 

 

以心伝心・不立文字ですね。

 

>その方が効率的なのである。

 

他に方法 (仕方) がないですらね。

 

>③へ続く >言葉による教育・動作による教育②の続きです。

> 挨拶の言葉には、意味はない。>挨拶の動作や形に意味があるのである。

 

挨拶の動作や形に価値がある。無言劇のようなものか。

 

>挨拶のできない者の多くが、挨拶に何の意味があるのかという。>彼等の多くが言葉に囚われているのである。 

 

そうですね。言語にも非言語にも価値はありますね。我々は、良好な気分・雰囲気を求めて多額の金を払っています。

 

> 緊張感は、緊張させないと解らない。 >百万言費やしても愛の真実は教えられない。 >しかし、人を愛すれば、一瞬にして愛する事の意味を知る事ができる。 

 

単語の意味は文章の意味・意義とは違いますね。具象語の意味は非言語ですから、見ればわかる。文法による理解を必要としませんから楽ちんですね。抽象語の意味は文法による文章の解釈であるから骨が折れて難しい。

 

> 考えさせない教育に対し、否定的な者でも無意識に、考えない教育を強要していることがある。>それが丸暗記である。

 

それは、神武 (じんむ)・綏靖 (すいぜい)・安寧 (あんねい)・懿徳 (いとく) と歴代天皇の名前を暗記するようなものですね。

 

> 丸暗記は、考えさせない教育の中では、悪い例である。>丸暗記は、実体が伴わないから丸暗記するしかなくなるのである。

 

言葉が一人歩きするのですね。

 

>丸暗記した記憶は、感情とは、結びついていない。 >故に、行動には、結びつかないのである。

 

門前の小僧 習わぬ経を読む’ といったようなものですか。

 

>しかも、丸暗記は、教える側も教わる側も無自覚に考えさせない教育をしている場合が多い。>その為に、丸暗記そのものが目的となり、記憶そのものは価値がなくなる。

 

クラスの中で、誰が最初に与えられた内容を暗記し終えたかですね。

 

>その記憶は、価値がないだけに、記憶力に、後々悪い影響を及ぼす可能性がある。>つまり、知識と実体が乖離してしまうのである。

 

残念な結果ですね。

 

 

.