江藤淳 3/3

 

>検閲の存在をあくまで秘匿し尽くすという黙契に関するかぎり、被検閲者たちはたちどころに検閲者との緊密な協力関係に組み入れられてしまうからである。 >(江藤淳『閉ざされた言語空間』文春文庫P221)

 

これは日本人式の協力関係ですね。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

>検閲者・米占領軍と被検閲者・日本のマスコミ関係者との共犯関係・・・。

 

序列関係の確立していない間柄では、日本人の寝返りは珍しくないですからね。わが国の首相も米国のエイジェントとなっている。日本人は、何を考えているかわからない。これは、我が国民が無哲学・能天気である証拠なのであろう。  

 

> 今、「小沢一郎事件」と「小沢一郎暗黒裁判」という限界状況的現実を前にして、はじめて、我々は、江藤淳が『閉ざされた言語空間』で言っていたことが歴史的事実であり、思想的現実であることを理解できるようになったと言っていい。 

 

わが国の官僚の忖度が働いているのでしょうね。事大主義というのかな。

 

>新聞やテレビを中心とする現在の日本のマスコミは、朝日新聞産経新聞も、「小沢問題」に直面して、何故、奇妙に「全員一致の言説」になってしまっているのか。 

 

日本人には、批判精神 (critical thinking) というものがない。だから、ただ一斉に事実の内容をそのまま垂れ流すしかない。どんぐりの背比べの状態になっていて、有力紙というものが存在しない。

 

>つまり朝日新聞産経新聞も、「小沢事件」報道や「小沢一郎暗黒裁判」擁護論ということになると、不思議なことにまったく区別がつかなくなるのだ。>何故か。>それを探っていくと、江藤淳が『閉ざされた言語空間』で抉り出した米占領軍による発禁・検閲という問題、そして発禁・検閲という事実を隠したという問題にたどり着くだろう。 

 

彼らの情報収集活動は、日本人の理解を超えていますね。

 

>日本の新聞やテレビは、つまり日本のマスコミ全体が、左翼も右翼・保守派も、あたかも飼い慣らされた犬のように、「米国」というと、無意識のうちに、あるいは本能的に「従米路線」に変身するのである。

 

そうですね。‘朱に交われば赤くなる’ ということですね。

 

>それは、敗戦直後の米占領軍が日本のマスコミに対して行った発禁・検閲という問題を抜きには考えられない。 

 

日本人の硬直した頭では、リーズナブルな答えなどは出てこないでしょうね。

 

>ネットを中心とする新しい世論が、「小沢一郎暗黒裁判」批判を展開しつつあるのも、そこに原因がある。> 言うまでもなく、「ネット」や「ネット論壇」「ブログ論壇」には米占領軍による発禁・検閲のトラウマがないからである。 

 

そうでしょうね。

 

 

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