無責任 1/3

 

(略)

>本稿では、加害者と被害者の関係という構図からこの問題について論考していきたいと思う。

>前半ではなぜ戦後メディアがこのような構図に陥っていったのかを歴史を振り返りながら概観し、後半ではこのような構図が社会にどのような影響を与えているのかを論考する。

>■自分たちには責任はなかった

 

とかくこの世は無責任ということですか。

 

>戦後マスメディアの問題の原点はどこにあるのだろうか。>出発点にまでさかのぼってみよう。 > 太平洋戦争が終わった1945年の暮れに『旋風二十年 解禁昭和裏面史』(森正蔵著、鱒書房)という本が出版された。 

 

ずいぶん早く出版されましたね。以前から用意されていたのでしょうね。

 

>上巻は最初の1週間に10万部を売り、下巻は翌春に出て70万部以上の大ベストセラーとなった。

 

暴露本はいつも人気がありますね。

 

>この本は張作霖爆殺事件から満州事変、2.26事件、日中戦争、開戦直前の日米交渉、真珠湾攻撃にいたる間に政府がどのようなプロセスで政策を決定していったのかを、毎日新聞の記者たちが「暴露」したものだ。 >序章にはこうある。 > 「このなかのあらゆる章には、これまでさまざまな制約のために公にされなかった史実が、多分に折り込まれている。>抑圧された言論、歪められた報道は、われ等が現にそのなかで生活して来たわずか二十年の歴史を、全く辻褄の合いかねるものとしている」

 

事実以外のものを述べるつもりもないようですね。

 

>このように、軍部や政府の秘められた内実を暴露した本という体裁だった。>しかしこの本には批判も少なくない。

 

そうでしょうね。それは、日本人全体に対する批判のようなものになるでしょうね。

 

>たとえば日本の戦後の混乱期を包括的に描き出した米政治学者ジョン・ダワーのピューリッツァー賞受賞作『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2001年)は、『旋風二十年』についてこう書いている。 > 「それは、深い考察などに煩わされない、じつに屈託のないアプローチを取っていた。

 

そうですね。実況放送・現状報告の類の内容ですね。人間とって大切なものが抜け落ちていますね。

 

>日本の侵略行為の本質や、他民族の犠牲などを白日のもとにさらすことにも(南京大虐殺は触れられてもいない)、広く『戦争責任』の問題を探ることにも、とくに関心はなかった。

 

そうですね。日本人には、’あるべき姿’ がない。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

 

>既存の資料や、これまで発表されなかった個人的知識だけを主たる材料に、こういう即席の『暴露本』が書けるという事実からは、今自分たちが正義面で糾弾している戦争にメディアが加担していたことについて真剣な自己反省が生まれることはなかった」

 

意思の無い人間には、加害者意識がない。だから、深刻な反省もない。肝心かなめのメディアが戦争に加担していたことが問題にならない。これがメディアの病です。

 

>メディアの自己反省などは皆無で、「軍部が悪かったから戦争になってしまった」と悪を糾弾しているだけの内容だった。 

 

ただ、’事の次第・成り行きだけを述べる内容になったのですね。私的見解を加えることなく、ただ淡々と事実を述べるところが恐ろしい。

 

>しかし実際には、日中戦争から太平洋戦争とつながる背景には、メディアの扇動や国民の高揚があったことはよく知られている。

 

メディアの扇動は、自身の金儲けにもなった。

 

>ところが『旋風二十年』がベストセラーになったことで、日本人の多くは自分たちの責任を忘れた。

 

意思の無い人間には責任がないからでしょう。これはちょうど死刑執行人の立場のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意というものがないからである。

 

>いや、無意識のうちに忘却したかったのかもしれない。

 

自分には意思がないから、その内容は全て他人任せである。皆がそうすることで、兎角この世は無責任となる。

 

 

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