がんじがらめ

>日本での生活は、がんじがらめ。

 

そうですね。日本人には意思がない。

意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから日本人には意思 (will) がない。意思の無い人間は他人からの指示を待っている。いわゆる指示待ち人間である。こうした人間には、がんじがらめの感がある。

 

>違和感・不整合感が腹の底でたまってる。

 

自由とは、意思の自由のことである。意思の無い人間には自由の価値もない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ の暮らしをしている。自由世界の中での不自由な暮らしには違和感がある。言語に基づく不整合感は説明が難しいので腹の底にたまったままになる。

 

>・・・日本人はまた我慢強いから、表に出さない。

 

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には意思がない。仕方がないから無為無策でいる。だから、我慢強くなくてはならない。座して死を待つのか。泣けてくる。

 

> 街を行く人や電車に乗っている人の表情が暗いのも、自分の中に溜めているから。

 

そうですね。我慢していても希望がやってくることは無い。だから、我慢の先に光が見えない。意欲減退する中で、’頑張って’、’お疲れ様’ とお互いに声を掛け合って励まし合って働いている。

 

>でもだんだん我慢できなくなってきた。

 

そうでしょうね。そのうちに爆発しますね。ガス抜きが必要ですね。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。Seeing is believing. 簡単である。考える必要がない。答えはただ一つ存在する。楽ちんである。

非現実・考えの内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。その内容を知るには文法に従ってその文章を理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常文章の理解はしない。

日本人は理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。そして、日本人特有の忖度を理解だと思いこんでいる。だから、欧米人との対等な付き合いができない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)  

 

 

 

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