個性的 3/4

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

考えの内容は人・人により違いますからね。考えがあれば、その違いは個性ということになります。考えの無い社会では個性は表れることなく、人間にしかない魅力は存在しません。アニマル同然の親しみばかりとなります。

 

> 逆にいえば、人間関係に恵まれているという事実こそが、人間的魅力を示す重要な指標となっている。

 

ここでいう人間関係とは、なれ合い関係のことですね。真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いですべてをすませることですね。教養が感じられませんね。

 

> 一人ぼっちでも充実していることを意味する「ぼっち充」という言葉があるのも事実である。

 

考える人 (the thinking man) のことでしょうね。大切ですね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.

 

>しかし、それも負け犬の遠吠えという感がぬぐえない。>あるいは、「ぼっち」回避の疲弊感からくる反動といえなくもない。

 

自分の考えに価値がない。だから、負け惜しみになっているのでしょう。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを示している。考えの内容は、人により違っている。だから正解は一つではない。幾らでもある。

矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り去れば正しい考えになる。このためには、対話・議論が役に立ちます。ですから、対話・議論を盛んにしよう。

 

>かつてと比較すれば、現在の日本は確かに一人でも生活しやすい社会になった。

 

そうですね。チョンガーの生活もコンビニで大いに助かっていますね。  

 

>しかし、そうやって人間関係の自由度が高い社会になったからこそ、つねに誰かとつながっていなければ逆に安心できなくなっている。

 

そうでしようね。対話・議論を盛んにしましょう。

 

>それを欠いた人間は、価値のない人物と周囲から見られはしないかと他者の視線に怯え、また自身でも価値のない人間ではないかと不安に慄くようになっている。

 

自由人であっても自分というものに自信が持てないのですね。

 

>その意味で、じつは今日は、一人で生きていくことがかつて以上に困難な時代なのである。

 

もたれあいの生活が恋しくなったのでしょうね。

 

>ゆとり世代といかに接するべきか

>日本能率協会が実施している新入社員調査には、理想の上司像を尋ねた設問がある。>その近年の回答を見ると、仕事について丁寧な指導をする上司の人気が高く、仕事を任せて見守る上司の人気は低い。 

 

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>ところが現在の上司に同じ質問をすると、まったく逆の回答が得られる。 >おそらく現在の上司は、かつて自分たちが若かった頃に、上司を鬱陶しい存在と看做していたからだろう。

 

そうですね。きっと、自分も上司も礼儀正しい日本人だったのでしょうね。序列作法に厳しい間柄だったのでしょうね。

 

>ここに世代間の大きな意識ギャップがある。>端的にいえば、今日の若者には、上司や仲間から「見られているかもしれない不満」よりも、「見られていないかもしれない不安」のほうが強いのである。 > 社会的動物である人間は、他者からの承認によって自己肯定感を育み、維持していく存在である。>その構造は昔も今も変わらない。

 

そうですね。他からの声援が自己の自信を育てますね。

 

>ただし、個性的であることが憧れでありえた時代に私たちに強力な承認を与えていたのは、社会的な理想や信念といったいわば抽象的な他者だった。

 

そうですね。無哲学・能天気な国民には抽象は魅力的な存在であったはずですね。

 

>その評価の基準は普遍的で安定しており、いったん内面化された後は人生の羅針盤として機能しえた。

 

そうですね。日本人には縁の遠いものですね。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン) 

 

>それに対して今日では、抽象的な他者のリアリティが失われた結果、身近な周囲にいる具体的な他者の評価が前面にせり出してきた。

 

それは、’なあなあ主義’ (なれ合い) ですね。日本人は、抽象には縁が遠いですからね。

 

 

.