教育の崩壊 3/4

 

(続く)日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)

 

>②へ続く。 >290956 敬語と日本語②~敬語の基本は、極力『我』を出さず、すべてのことが『自発』的世界の中で起こっているかのように表現する言葉遣いにある~  >mosimobox ( 20代 会社員 ) 14/06/05 AM00 【印刷用へ】 

>敬語と日本語①~日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつ~の続きです。

> 敬語の基本は、極力『我』を出さず、すべてのことが『自発』的世界の中で起こっているかのように表現する言葉遣いにある。

 

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) はある。恣意はである。これを表さないのが日本人の作法の基本でしょうね。

 

>よく敬語は自分を低く見て、相手を高く見ることだといわれるが、それは決して間違いではないが、より正しくは、自分に対しても相手に対してもその行為の『主体性』消し去ることにある。

 

日本人には意思がないのだから、主体性もない。にも関わらず、主体性が出ると言われるのは恣意の為である。

 

 自分を下にして相手を上にした言葉遣いをしすぎると、かえって不自然で『慇懃無礼』に感じられるのはそのためである。

 

そうですね。だから上下社会 (序列社会・縦社会) は、難しい。

 

 何が『自然』で『自発』的なのか、それを絶えず感知する能力が日本語には求められている。

 

そうですね。日本人の動作・言動は事の次第・成り行きで決まりますからね。

 

その能力とは、決して子供のような『主客合一』でも『自他未分離』の状態でもなく、全体のなかでしっかりと自己を見据えていく『自己意識』である。

 

これは、難しい解釈ですね。序列社会全体の中での自己の位置 (序列順位) を見定めることですかね。そうであるならば、自己意識は序列意識ですね。大名行列のように、一糸乱れず行進しますね。

 

>よく誤解されていることだが、日本人は『自己意識』が希薄なのではなく、> 『日本庭園』で書いたように、>リンク >『努力して努力して、どこまでも人の手を加えていながら、それでいて、涼しげな顔をして、あたかもそこに無造作に日本庭園があるように見せるところが、日本庭園のすごさなのである』。

 

個人に意思がないのだから、仕方のないことですね。

 

>それと同じように、日本人の意識は決して『自己意識』が希薄なのではなく、ヨーロッパとは違った自覚的な深い意識のあり方なのである。

 

それは意思の表現が不可能だからでしょう。意思は未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから。日本人には意思 (will) がない。

 

> 日本人の意識は、あたかも無意識から出たもののようにさりげなく表現される。

 

日本人にはそれしかないですね。日本人が意思決定に難渋する民族であることは明治以前から外国人に知られていましたね。

日本人には意思がないのであるから、外国人から意思の内容を尋ねられたら返答に困るのは当然ですね。意思の内容に焦点を当てて考えることが難しいのです。

フランク・ギブニー (Frank Gibney) 氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

 

>しかし、だからといって決して無自覚に出されたものでなく、十分に自覚的にそして意識的に出されたものである。

 

それが精一杯というところですね。

 

>しかも、その出し方があたかも『おのずからそうなったように』、また『人の手が加わってないかのように』出されたものである。

 

そうですね。全ては事の次第・成り行きで表現するのがルールですね。それしかない。そうでなければ、恣意の発現となります。

 

>そういう意味は、日本人の意識のあり方はどこまでも意識的なものであり、高度に人為的なものである。

 

意思の無い人間の高度な表現法でしょうね。これを高文脈文化 (high-context culture) というのですかね。

 

 

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