真面目人間 1/3

 

>356340 日本人が「お上の要請」に真面目に従う根本意識-統治客体意識からの脱却は20年以上叫ばれたが-① >匿名希望          20/05/05 PM10

>新型コロナウイルスの感染拡大によって、日本全国に「緊急事態宣言」が発令され、国民には外出の自粛、特定の業種には営業の自粛が要請された。

 

これは、我が民族に課せられた試練ですね。

 

>ところが、休日になると湘南の海に人が殺到。>慌てた自治体は、地元の駐車場を閉鎖して、県知事が「神奈川には来ないで」と会見で訴えた。>休業要請に応じず営業を続けていたパチンコ店に、大阪府知事は全国で初めて店舗名を公表して、法に基づくより強い要請を出した。> 人との接触を最低7割、極力8割削減することを呼びかけた政府は、その目標に近づけようと、経済団体はじめ、あちらこちらに、とにかく「要請」を出し続ける。> 夜の東京の繁華街には警察官や都の職員らがまわって、帰宅の呼びかけや営業中の飲食店の閉店を求めている。>是が非でも「自粛要請」を徹底しようと、行政側はあの手この手を尽くす。

 

日本人には自粛が必要ですね。

 

>なぜ、ロックダウン(都市封鎖)をしないのか――。>欧米諸国のように、市民の外出禁止を伴うロックダウンを実施してしまったほうが、早くて効率的ではないのかと考える読者の方もいるだろう。>しかし、日本にはそうできる法的根拠はない。

 

法律の不備ですかね。

 

>■日本の統治機構の歴史を考えてみる >「緊急事態宣言」の根拠となった改正新型インフルエンザ等対策特別措置法には、国民の外出自粛の要請、施設や事業の営業の自粛要請ができるが、そこに罰則規定はない。>あくまで行政から国民への「要請」なのだ。>そこには、日本の統治機構の歴史に染み込んだ国民性が根本にある。

 

そうですね。わが国には神の意思も無ければ人の意思もない。優柔不断・意志薄弱に見える。

 

>そもそも、国民に外出禁止や営業停止を強いることは、私権を奪うことである。>強制や強要となれば、戦争に突き進んだ過去の苦い経験が、重くのしかかる。>戦後に制定された日本国憲法とも齟齬が生じかねない。>それが歯止めとなって、罰則のない国民への「自粛」と「要請」で「緊急事態」を乗り切ろうという日本独自の姿勢を貫いている。>そう考えると、強制力行使への抵抗から、法律に「要請」しか盛り込まなかった理由もわかりやすい。

 

そうですね。強制力には個人の意思が必要ですからね。日本人には、その意思がない。日本人の言動は、事の次第・成り行きにより出現するものですからね。

 

>だが、それだけだろうか?  >むしろ、「要請」でも日本人は真面目に従うという、日本の歴史に裏打ちされた統治機構側の無意識が働いていたというべきだろう。>いまから20年前のいわゆる「小泉構造改革」を思い出してほしい。>郵政民営化など、小泉純一郎内閣が取り組んだ政策課題だ。>もっと言えば、新自由主義への転換を目指したものだった。>その一連の構造改革の流れは、もっと前の橋本龍太郎内閣の時代からはじまっていた。>折しも、終戦から50年が過ぎ、バブル崩壊の余波が押し寄せてきていた時期だ。>その最初は、行政改革だった。1996年11月、当時の橋本首相を会長とする「行政改革会議」が立ち上がり、翌97年12月には「最終報告」が取りまとめられた。>そこでは、当時の日本は、第1に黒船来航にはじまる明治維新、第2に1920年代の世界恐慌と軍部の台頭から戦争、第3に敗戦と米軍の駐留、戦後復興に次ぐ、第4の転換期にあると位置づける。>そして冒頭において、行政改革の趣旨としてこう記載されている。> 「われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結び付くものでなければならない。(「行政改革会議」最終報告「はじめに」より)」

 

自律的個人には意思が必要ですね。日本人には、その意思がない。意思の内容は個人個人で違っている。わが国には、その個人主義がない。

 

>ここに登場する「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質」という言葉。 >すなわち、国がなんでもやってくれるというまさに国家への依存体質であって、国民は統治される側の客体であるという意識が色濃く残っていたことを指している。

 

日本人には意思がない。だから、万事が ‘受け身’ の発想になる。統治客体意識の基礎をなしている。

 

 

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