真面目人間 2/3

 

>356341 日本人が「お上の要請」に真面目に従う根本意識-統治客体意識からの脱却は20年以上叫ばれたが- >匿名希望        20/05/05 PM10

>■事前規制型行政の弊害

>この「行政改革会議」を経て、1998年1月に、政府内に総理大臣を本部長とする「行政改革推進本部」が設置され、その下に「規制緩和委員会」が立ち上がる。>これは翌1999年4月には「規制改革委員会」に名称を変更し、さらに組織が強化される。> 小淵恵三首相に代わった1998年8月には、内閣の諮問機関「経済戦略会議」が組織される。>バブル崩壊後のどん底の状態にあった日本経済の建て直しが急務となったこの会議では、発足からわずか半年後の翌年2月に「日本経済再生への戦略(経済戦略会議答申)」が提出されている。>これらの諮問機関の審議の中で、「事前規制(調整)型」の行政(すなわち、事前にあれやこれやと規制をかけつつ、全体を調整しながら、企業や国民を守って戦後成長を支えた行政姿勢)から、規制を撤廃して自由競争を促進させる「事後チェック型」の行政への転換が求められるようになり、そこで「小さな政府」という言葉が用いられて、米英型の新自由主義社会こそが、日本経済再生の道であると方向づけられていく。

 

さうですね。自由とは ‘意思の自由’ のことである。しかるに日本人には意思がない。意思がなければ自由にも意味がない。それで、’不自由を常と思えば不足なし’ という状態になる。

意思は未来時制の文章内容である。しかるに、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。しかし、日本人には恣意 (恣意・我儘・身勝手) がある。意思疎通は無いが、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。意思決定 (理性判断) は無いが恣意決定 (盲目の判断) はある。恣意は、ばらばらの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するから文章にならない。だから、意味も無い。それを忖度によりくみ上げようとして談合を開く。腹をくくって決着する。万事がうやむやで推移して、後には何も残らない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>ここでは、自由競争社会で事後チェックと救済の機能を果たすものが、司法であるとされた。>そこで次に司法制度改革が求められた。>2001年6月、「司法制度審議会」が当時の小泉純一郎首相に「司法制度改革審議会意見書 ―21世紀の日本を支える司法制度―」と題する報告書を提出している。>ここで、裁判員制度の導入も提言された。>その中に「改革の基本理念」として、行政改革からはじまる一連の構造改革を以下のように統括するところからはじまっている。> 「このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである。>統治者(お上)としての政府観から脱して、国民自らが統治に重い責任を負い、そうした国民に応える政府への転換である。(報告書「Ⅰ 今般の司法制度改革の基本理念と方向 〜 第1 21世紀の我が国社会の姿」より)」

>ここではっきり「お上」という言葉が記載されているように、国民の統治客体意識とは「お上」に支配されているという江戸時代から染み込んだ国民意識に他ならない。

 

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な序列判断は日本人には欠かせない。

その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、序列メンタリティ (考え方) が疎かな人であっては、礼儀正しい日本人にもなれない。非国民か外人になる。

 

 

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