メディアの病 2/4

 

>既存の資料や、これまで発表されなかった個人的知識だけを主たる材料に、こういう即席の『暴露本』が書けるという事実からは、今自分たちが正義面で糾弾している戦争にメディアが加担していたことについて真剣な自己反省が生まれることはなかった」 

 

日本人には意思がない。だから、加害者意識 (罪の意識) がない。そして、反省の色もない。だから、歴史は繰り返す。

 

>メディアの自己反省などは皆無で、「軍部が悪かったから戦争になってしまった」と悪を糾弾しているだけの内容だった。>しかし実際には、日中戦争から太平洋戦争とつながる背景には、メディアの扇動や国民の高揚があったことはよく知られている。

 

メディアは戦争で大いに儲けさせてもらったにもかかわらず、でしょう。

国民の支持を背景にして、軍部が犯人ということで、お決まりの ‘犯人捜し’ は成功したのですね。捕物帳は満足できる結末を得て、めでたしめでたし。

 

>ところが『旋風二十年』がベストセラーになったことで、日本人の多くは自分たちの責任を忘れた。

 

そうですね。多くの日本人が溜飲を下げたのですね。過去は日本人の頭の中で疾く風化することになっています。喉元過ぎれば熱さを忘れる。

 

>いや、無意識のうちに忘却したかったのかもしれない。

 

日本人には罪がない。贖罪の為の宗教 (キリスト教) もわが国では流行らない。日本人の反省は、’過ちは繰り返しませぬから’ 程度のもの。何が過ちかは分からない。けじめのない社会であることが理不尽であるとは考えられていない。日本人には、ごく自然現象のように見えている。

 

>人々は、太平洋戦争が政治家や軍人の無知と無謀と野望のためだったと思うようになり、「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がまかり通っていく。 

 

日本人には意思がない。だから、その行動は事の次第と成り行きにより開始されることになる。これはアニマルの場合と同じである。万一失敗があってもその説明責任を取る者はいない。 

 

>自分たちの戦争への加担はそうして忘れ去られていった。

 

自己の意思を示せば当事者・関係者なる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。そして、自分自身の考えた ‘あるべき姿’ の内容を話しかける相手はいない。ただ、思い込みだけが存在する。だから、常に孤高の人になっている。 

 

>「私たちはだまされていた」「私たちはずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」という思い込みだけが膨れ上がったのだ。

 

そうですね。日本人にあるのは被害者意識ばかりであって、加害者意識 (罪の意識) というものがない。自分はあくまでも善良な人間であると信じている。

 

> 敗戦翌年の春、映画監督の伊丹万作は「戦争責任者の問題」というコラムを雑誌「映画春秋」の創刊号に書いている。 >戦争翼賛の映画をつくっていた監督やプロデューサーを告発する風潮が映画業界でも高まり、同じ映画業界の人たちが急先鋒になっていたことに、伊丹は痛烈な批判を加えた。 > 「みんな、今度の戦争でだまされたと言ってる。 >みんなが口をそろえてる。 >でも私の知ってる限り、『おれがだました』って言ってる人はひとりもいないな」

 

日本人には意思がない。だから、加害者意識がない。罪の意識がない。あるのは被害者意識ばかりである。実に恨めしい世の中である。これでは化け物も出ずにはいられない。

 

> 一般国民は口をそろえて「軍と官僚にだまされた」と言い、軍と官僚は口をそろえて「上司にだまされた」と言う。 >その上司に聞くと、口をそろえて「もっと上の者にだまされた」と言う。

>そうやって突き詰めていくと、最後はひとりかふたりになってしまう。>しかしそんなひとりやふたりの知恵で、一億人がだませるわけはないのではないか?

 

そうですね。実に不思議な受け身の社会の仕組みですね。

 

>そして伊丹はこう指摘する。 >戦争で誰が自分たちを苦しめたのかと思い出すときに、真っ先に記憶からよみがえってくるのは近所の商店主や町内会長や郊外のお百姓さんや、あるいは区役所や郵便局の役人たちではないだろうか。 >ありとあらゆる身近な人たちが、自分たちをいちばん苦しめていたではないか、と。 >つまりは悪人とは自分たち平凡な人々だったのだ。

 

そうですね。よくよく考えてみれば、そういう事になりますね。政治音痴ではどうにもなりませんね。

 

 

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