メディアの病 4/4

 

 

> 弱者を装うことによって、力を得ることができる。 >これがマイノリティ憑依である。 >だから新聞やテレビは過去から現在にいたるまで、「市民目線で」「庶民の目から見れば」などの言い回しを好む。 >市民や庶民という「政治権力に抑圧される弱者」に装うことは、本来は権力のひとつであるマスメディアにとって、みずからが批判の刃にさらされる危険性を減らすことができ、実に便利な「戦術」だったということになる。

 

そうですね。マスメディアは、大衆の中に身を埋めて自己の危険を減らしているのですね。’市民の目線で’ とか、’庶民の目から見れば’ という表現は、市民や庶民がのりうつる一種のシャーマニズムですね。

日本人には、現実の表現しかない。だが、憑依によって二つの現実を演じる者がいる。しかし、’それで、どうした’ (So, what?) の問いには答えが出ない。うらめしい。

英米人には、現実と非現実の両方がある。’今ある姿’ (things as they are) の現実内容を 自己の ‘あるべき姿’ (things as they should be) である非現実の内容を用いて批判すれば、批判精神 (critical thinking) を表すことができる。その批判は個性的であるから、彼らの国のマスメディアの中には有力紙が存在する。  

 

> 「弱者である」ということはメディアの空間では無敵だから、それに対して政府や企業の側、あるいは言論人などがそれに批判を加えても、まったく揺るがない。

 

自己の意思を示せばその内容に責任を持たなければならない。弱者の守りは、受け身による守り。批判を加えられない堅固な守りですね。

 

>なぜなら「弱者を代弁している自分たちこそが正しく、それを批判する者はイコール弱者を批判する者であり、悪である」という認識を保ち続けることができるからだ。

 

弱い者いじめをしてはいけない’ と子供の時から教えられていましたからね。’あるべき姿’ を想定できないでいる人間には自己主張が難しい。これは、自己主張への批判を避けるための拙い方策ですね。

 

>だから彼らは、外部から叩かれれば叩かれるほど「悪から叩かれる自分たちはやはり正しいのだ」と意思をより堅固にしていってしまう。>「私たち記者は正義。がんばる」という通信社記者のツイートが話題になったことがあったが、まさにこの心情である。

 

安直な正義感ではないでしょうか。まさに玉砕型ですね。恥の文化の終焉ですね。生産的なところがない。

 

>

>加えてこのように悪を糾弾し続ける姿勢は、加速しやすい。

 

勧善懲悪のようなもので、実に分かりやすくて脱線の恐れがありませんね。

 

>悪がいなくなった後も、いつまでも悪を探してしまう。 >なぜなら「悪と対峙し、弱者を代弁する自分こそが善である」というマイノリティ憑依の構図は、「加害者対被害者」「悪対善」という単純な二項対立の中でしか存在し得ないからだ。

 

そうですね。現実しかない日本人には絶対化がありません。現実の中で絶対化する内容を求めるのは至難な技ですね。

山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。

そこで、自分の為に善の存在を持続させる必要があるのです。シャーマンも失職しては困るのでしょう。だが、憑依の構図は建設的ではありませんね。 

 

>つまり悪がいなくなったとたんにこの構図は崩れてしまい、批判側はマイノリティ憑依のポーズをとれなくなってしまう。

 

そうですね。マイノリティ憑依には、二つの現実があって、非現実がない。それが問題です。現実の内容の正解はただ一つです。  

 

>それを防ぐために、批判側は無意識のうちに新たな悪を探し求めてしまう。

 

犯人捜し’ はいつまでたってもやまらないようですね。テレビ番組の捕り物帖の人気もやまらない。 

 

 

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