意志力

 

>353346 思考の壁を乗り超える『算数脳』 >石山 巌 ( 45 コンサル業 ) 20/02/02 PM11 【印刷用へ】

>花まる学習会では「思考の壁」を突破するのに必要な力(見える力・詰める力・あそぶ力)を「算数脳」と呼んでいます。 > 仕事で成果をあげている人に備わっている力にも重なります。

>■思考の壁を乗り超える『算数脳』(花まる学習会HPより(リンク)) >:::以下転載:::

(略)

>▼意志力:自分で解くことにこだわる力

>  問題を解くために粘り強く、最後まで諦めない。

 

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思は文章内容になり意味があるが、恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し、文章にならないから意味がない。

意思がないから意思疎通 (相互理解) はできない。だが、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) ならできる。恣意には意味がないから議論・対話はできない。だが、談合 (腹の探り合い) ならできる。意思決定 (理性判断) ができないが、恣意決定(盲目の判断) ならできる。結果に対する説明責任はとれないので、後はうやむやになる。とかく、この世は無責任。これを ‘なあなあ主義’ という。なあなあ主義とは 真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。

日本人は恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂とする。意味がなく筋が通らないので、努力の甲斐も無く空しい。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

>やる気の炎を消さずにやり通す力。> 言い換えれば「執念」「しつこさ」「こだわり」とも言い換えられるもの。

 

入試の面接試験に来た学生は、’私の長所は粘り強さです’ と答える。自分の興味の内容に焦点が合わず没個性的である。

 

>「自分で考え、最後までやり遂げたい」という強い意志をもてると、やり遂げたときに大きな喜びとなって返ってきます。 >また、意志力のある子は、人生を生きる力も強くなります。

 

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人の脳には未来時制の構文は無く、日本人には意思 (will) がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思の無い日本人には方法がない。仕方がないから、無為無策でいる。生きる力 (vitality) に乏しい。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく) 

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

(略)

 

 

 

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