教育 1/2

 

>357924 戦前の家庭教育①~「人(社会)のためになる人になりなさい」が家庭教育の根源~  >前野将克 ( 22 会社員 ) 20/06/25 AM01

>誰しも自分の親(先生)に「人に迷惑はかけないようにしなさい」と言われた経験があるのではないだろうか。

 

ありますね。

 

>そう言われて育った子どもは「迷惑を掛けなければなにをしていても自分の勝手だ」と潜在的に思い込んでしまう例も少なくないだろう。 

 

そうですね。

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。

意思決定 (理性判断) がなくて、恣意決定 (盲目の判断) がある。

意思の自由がなくて、恣意の自由があるのだが、恣意の自由は ‘自由のはき違え’ になる為に許されず、’不自由を常と思えば不足なし’ の状態に甘んじている。

意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。

 

>しかし今の時代だからこそ、今一度、家庭教育の根源は「人(社会)のためになる人になりなさい」という教えから来ていることを再認識する必要がある。

 

日本人には難しいでしょうね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。生きる力が足りない。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)

 

>リンクより引用

>あるブログに次のような言葉があった。

> アメリカ文化の根底にはキリスト教があります。キリスト教の黄金律は『自分にして欲しいことは人にもしなさい』です。[golden rule: 黄金律]

 

Do unto others as you would have them do unto you. 己の欲するところ人にもこれを施せ (マタイの福音書7: 12)

 

>  それに対し日本の文化には儒教、仏教、神道があります。 >日本の教えは『自分にして欲しくないことは人にしてはいけません』です。

 

そうですね。論語・顔淵では、’己の欲せざるところは人に施すことなかれ’ ですね。

 

>これから始まって日本では『人に迷惑をかけてはいけない』ことになり、消極的になって『何もしない方が良い」ことになり、また』人に迷惑をかけなければ何をやってもかまわない』という風潮が生まれてくるのかもしれません」・・・・。

 

そうかもしれませんね。無意思であるから、無為無策になりますね。盲目の判断はなお困りますね。

 

> 儒教、仏教、神道と「自分にして欲しくないことは人にしてはいけません」との関係はよくわからない。 

 

そうですね。日本人の宗教は儀式があって教義がないようなものですからね。日本人は各宗教を儀式に従って渡り歩いています。

 

>しかし、実際、私はこのような言葉を具体的に親から言われていないものの、社会的風潮として、「人に迷惑をかけてはいけない」と子どもを諭す雰囲気は確かにあった。 

 

ご近所に迷惑をかけると苦情が来る。平謝りをする。それが厄介である。

 

>そして非行少年は、必ずといっていいほど次のように言った。  >    「だれにも迷惑はかけてない」

 

非行少年にも儒教の教えが浸透していたのですね。

 

>しかし、これは日本の子育ての伝統ではなく、戦後に生じた傾向である。 >  戦前の大部分の親は子どもに次のようなことを言って育てていた。>    「人(社会)のためになる人になりなさい」  

 

修身教育は、’忠君愛国’・’滅私奉公’・’七生報国ですね。

 

>そして、手に余るどうしようもない子どもに対してだけ   「(せめて)人に迷惑はかけないようにしなさい」と言ったのである。 

 

最低水準の要求ですね。

 

>ところが戦前の場合「人(社会)のためになる人になりなさい」という意味で、「国のためになる人になりなさい」と言うことが多かった。 

 

国の為になるということは、為政者の為になるということでしょうね。為政者は人民の代表ではありませんからね。 

 

>この言い方は、戦後は一種のタブーのようになってしまったため、もう一つの「人に迷惑はかけないようにしなさい」だけが残ってしまったのである。 > 現在の家庭教育の状態を憂い、このような戦前の教育を持ち上げる人がいる。>確かに良い一面を持っていたことは確かである。 >反面、ある種のいやらしい一面も持っていたことを、老人達はけっして言わない。 >単純にどちらがいいかは言えない。 

 

そうでしょうね。

 

 

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