意思と責任

意思と責任

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。

意思の無い人間には責任 (responsibility) がない。責任とは、英米流の解釈によれば、それは応答可能性の事である。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は意思がないので応答可能性が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。仕方がないので、無為無策でいる。だから、生きる力が不足する。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

自己の意思を表せば当事者・関係者となる。表さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから、わが国は世界の中にあって世界に属していない。我々は常に孤高の人になる。何を考えているかわからない。無哲学・能天気の人である。  

意思の無い日本人には、意思決定 (理性判断) ができない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) があるので恣意決定 (盲目の判断) ならできる。このやり方が危険を呼ぶ。

意思は文章内容になるが、恣意はバラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するから文章にならない。だから、意思は言語の役割を果たし、その内容に意味がある、恣意は非言語であるから意味がない。

意思は意思疎通 (相互理解) により相手の理解が得られる。恣意は恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) により ‘なあなあ主義’ になる。なあなあ主義とは、 真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

欧米人は言語 (理性) で人間の行為を理解するが、日本人は建前 (言い訳・口実) と本音 (恣意) で人の行為を説明する。その解釈は真実であっても相手から信頼をえることは難しい。感心するところ (哲学) がないからである。

万一企てが失敗した時にも、担当者は説明責任が取れない。日本人には、リーズン (理性・理由・適当) というものがないからである。深く反省する機会も得られない。だから、責任が宙に浮いてケジメのない社会になっている。

 

日本語による発想は、’今・ここ’ に基づいている。過去は疾く風化し、未来は一寸先が闇である。

日本式の判断によれば、見ることのできる内容は ‘本当’ の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。考えは非現実であって、頭の中に存在しているので見ることができない。誰しも ‘嘘つき’ にはなりたくない。だから、日本人は自分の非現実 (考え) を語ることがない。これが則ち我々の ‘思考停止’ である。

この日本人社会の閉塞状態を脱する為には、我々日本人が日本語と英語を良く学び、時制の大切さを深く理解することが必要である。我々は時制を獲得することにより思考の困難を打開できる。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。考えは人によりけりである。だから、正解は一つでは無い。多数ある。

考え (非現実) の内容は、時制のある文章内容により表現できる。非現実の世界の内容は、それぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) として表現される。人生の始まりには世界観は白紙の状態であるが、人生経験を経るにしたがって各人はそれぞれにその内容を蓄積している。我々は、非現実の枠組みの中で考えを進めることができれば、自己の世界観 (world view) を持つことができる。我々は、’考える人’ (the thinking man) になることができる。

自己の世界観 (非現実) に基づいて現実の世界を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。