客体・主体 1/2

 

(略)

>2001年6月、「司法制度審議会」が当時の小泉純一郎首相に「司法制度改革審議会意見書;―21世紀の日本を支える司法制度―」と題する報告書を提出している。>ここで、裁判員制度の導入も提言された。>その中に「改革の基本理念」として、行政改革からはじまる一連の構造改革を以下のように統括するところからはじまっている。

> 「このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである。

 

客体意識から主体意識への転換は難しいですね。日本人には意思がないので、主体的にはならず客体的になる。

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがないので、日本人には意思がない。

 

>統治者(お上)としての政府観から脱して、国民自らが統治に重い責任を負い、そうした国民に応える政府への転換である。(報告書「Ⅰ 今般の司法制度改革の基本理念と方向; 第1 21世紀の我が国社会の姿」より)」 

 

意思の無い人間には責任がない。そして、日本人には意思がない。だから、日本人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意がないからである。全ての日本人は、死刑執行人のように、いわゆる ‘頼まれ仕事’ をしているのである。だから、この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。  

 

>ここではっきり「お上」という言葉が記載されているように、国民の統治客体意識とは「お上」に支配されているという江戸時代から染み込んだ国民意識に他ならない。

 

そうですね。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。だから、日本人には、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な上下 (序列) 判断が必要である。わが国では民が人間序列を作っている。そして、責任 (responsibility) 観念が存在しないにもかかわらず、人間の序列判定が非常に大切になっている。’人を見損なってはいけない’ という想いが強く、脅迫観念の域にまて達している。さもなければ、お上の祟り(仕返し) があるからである。それで、礼儀作法 (序列作法) ばかりの堅ぐるしい生活を強いられている。’頑張って’、’お疲れ様’ と声を掛け合ってお互いに励まし合って暮らしている。

 

>「お上」が平民を守ってくださる、その代わり「お上」から言いつけられたことは絶対である、という統治される側の常識。

 

意思のあるところに方法 (仕方) がある。日本人には意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力が不足している。苦して時の神頼み。

日本人には世界観 (非現実) がない。だから、各種の世界に関する内容は、想定外になっている。そして、政治哲学 (非現実) がない。だから、日本の政治家は処世術 (現実) に従って政治を運営する。遠目が利かない近視眼的発想になる。

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている’。(ウスビ・サコ)  

現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。答えは一つである。考える必要ない。これは楽ちんである。 

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。その話の内容を知るには文章を文法に従って理解しなければならない。それは大変骨の折れる仕事である。だから、日本人は理解をしない。通常、忖度で済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。両者の間にたとえ齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。  

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

 

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