読書感想文 2/2

 

>フィクションも同様です。>面白かったとか感動したというのではなく、具体的な評価ポイントを教えるべきです。  

 

日本人は、気分・雰囲気に酔って歌をよむのが通例ですね。  

 

>テーマ、題材、背景、問題と解決、伏線と回収、キャラの造形と成長、キャラ同士の比較相関と関係の変化、ストーリーのダイナミズムとテーマの整合性、といったストーリーテリングの問題。更には背景となる風土やカルチャーのリアリティ、サブプロットやフレームの指摘と有効性評価など、様々な要素があるわけです。>そうした具体的な観点から、対象書籍についてできるだけ事実に基づいて評価するのが批評です。 

 

これもプロ級の評価法ですね。  

 

>そのようなアプローチを、全く教えずに「本を通じた成長」とか「感動と発見の記録」などという、低レベルに子供を押さえつけるというのは、野球で言えば実戦形式ではなく、素振りの型や、シャドーピッチングの美しさを競わせるような話です。

 

そうですね。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)   

 

>そんな具体的で技術的な批評というのは、大学レベルだという批判もあるかもしれませんが、冗談ではありません。 >今の子どもたちは、例えばゲームやユーチューブ動画などについて、そのぐらい厳しく具体的な視点で日々批評をしながら生きているのです。 

 

子供の率直な意見が大切ですね。

 

> 文部科学省も、「主体的、対話的で深い学び」などと、立派なスローガンを掲げていますが、カビの生えた読書感想文教育一つ改革できないようでは、全くもって情けないとしか言いようがありません。

 

そうですね。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

> 引用:リンク

>「MAG2NEWS」 

 

 

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