理解 1/2

(略)

>-----------------

>■言葉を理解できない大学生が増加、今の教育では対処できない理由リンク

>今、教育の現場では、あらゆる学習において、社会に出てからの実用性を重視する実学志向が強まっている。

 

そうですね。日本人には現実しかありませんからね。  

 

>だが、基礎知識や教養、物事を深く考える習慣を身につけさせないのであれば、先の読めない変化の激しい時代を柔軟に生きることは困難だ。

 

そうですね。現実の内容の他に、非現実 (過去・現在・未来) の内容が必要になりますね。

 

>『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)の著者・榎本博明氏は、学校教育の在り方に警鐘を鳴らす。

 

薄っぺらな人間には現実の内容しかない。重厚な人間には、現実の他に非現実 (考え) の内容がある。

 

>●英語の学力低下は、偏差値にして7.4

>いくら知識を詰め込んでも、現実生活に応用できなければ意味がないとのことから、知識偏重の教育からの脱却が唱えられ、さまざまな教育改革が行われてきた。 

 

そうですね。

 

>2022年度からは、高校の国語の授業で生徒会の規約や自治体の広報、駐車場の契約書など実用文の読み方を学ばせるなど、実学志向は今後もっと強まりそうだ。  

 

そうですね。

 

>  実用性重視の教育にかじを切ったきっかけのひとつが、会話重視の英語の授業だった。 >1993年以降、英語教育を読解・文法中心から会話中心に転換してきたのだ。 >その結果、何が起こっているか。 >榎本氏は読解力や教養を身に付けられていないと指摘する。  

 

日本人は、元々無哲学・能天気ですからね。

 

>  公立高校の入試問題について、20万人のデータをもとに、英語の学力の経年変化を検討した心理学者の斉田智里氏によれば、1995年から2008年の14年間、毎年一貫して英語の学力が低下していることが判明したという。>学力の低下の程度は、偏差値にすると7.4という衝撃的な数字だ。  

 

それは大変なことでね。

 

>たとえば、2008年の偏差値50は、1995年の偏差値42.6に相当することになる。 >  こうした英語の学力低下のため、大学でも従来のような英語の文献を用いたゼミが成り立たないといった事態さえ生じている。 >日常会話はできても文章の読解ができないのだ。 

 

文語と口語では違いがありますからね。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

考えの理解が下手になるのは困りますね。  

 

>  かつてのような英文の読解が中心の授業であれば、英語で書かれた小説や評論を読み、それを日本語に訳すことで、言語能力や想像力が鍛えられるだけでなく、教養あふれる文章に触れることで深い教養が身につき、視野も広がり、知的刺激を十分に受けることができた。

 

昔はよかった’ ということですね。

日本人には現実しかない。現実は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。楽ちんである。正解は常に一つである。  

つまり、日本人には非現実 (考え) がない。非現実の内容は頭の中にある。それは見ることができない。その内容を知るには、文法に従って文章を理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常 ‘理解’ はしない。その代わりに ‘忖度’ (推察) を使って済ませている。

だが、理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が生じても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。  

 

>  ところが、英語の授業が会話中心の実用的な内容になったことで、海外からの旅行者に道案内したり、外国人とあいさつなどちょっとした日常会話を交わしたりする訓練となり、英文解釈のような知的格闘もなく、読解力の向上も深い教養の獲得も期待できなくなった。

 

日本人には、理解がなくて忖度がある。日本人の英文解釈は直訳 (理解) がなくて意訳 (忖度) がある。このような環境では、英文の解釈は、気分・雰囲気に酔う道しか残されていない。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59) これは、評論家や官僚が忖度を理解であると誤解していることですね。

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 (2/2に続く)

 

 

.