考えるな・悟れ 1/2
>358950 考えるな、悟れ。東洋哲学の「身もふたもない」神髄 >別所彦次郎 20/08/02 PM09 >リンクより引用
> ***
> 『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』河出書房新社 > 飲茶/著
> 本書で扱われるのは、東洋哲学である。 >しかしその前にまず、西洋哲学と東洋哲学の違いを理解しておかなければならない。 >この両者はまったく違うものであり、その違い故に東洋哲学がどれだけ理解しにくい思想体系なのかということを、まず理解しておかなければならない。
東洋哲学に思想体系があるのですかね。
>本書でも冒頭で、こんな風に書かれている。 > * >まず最初にはっきりと断っておくが、本書を読んで東洋哲学を理解することは不可能である >*
そうでしょうね。
> 何故そう言い切れるのか。 >まずはその辺りから理解していこう。
日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がない。 だから、リーズナブルな答えは期待できませんね。
>まずは西洋哲学から。 >西洋哲学というのは基本的に「無知」を前提とするらしい。 >自分はまだ何も知らない、というところから始めて、色んな人間が知力を振り絞って、一段ずつ階段を上がるようにして知を積み上げていく。 >誰かが何かを言ったら、それを土台にして、あるいはそれを蹴飛ばすようにして新しい考え方を積み上げていく。 >そうやって、大勢で知恵を振り絞って遥かな高みを目指そうではないか。 >これが西洋の考え方である。
そうですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.
政治に関する考えは、政治哲学になる。宗教に関する考えは、宗教哲学になる。歴史は歴史哲学、科学は科学哲学、人生は人生哲学になる。等々。
政治家には政治哲学が必要である。そうでなければこの国の政治は政治音痴になる。遠い未来の自分自身の行き着く先を想定できないでいる。これは、日本語文法に時制がないためであろう。日本人には世界観が持てない。来るべき世界の内容が日本人の深刻な話題にならない。
‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている’。(ウスビ・サコ)
‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’( グレゴリー・クラーク)
これでは、衆愚政治である。これは極めて危険な政治状態である。
>しかし東洋哲学はまったく違うのだ。 > * > (東洋哲学とは)ある日突然、「真理に到達した」と言い放つ不遜な人間が現れ、その人の言葉や考え方を後世の人たちが学問としてまとめ上げたものであると言える。 > * >この説明だけで、どれだけ両者が違うのか理解できるだろう。 >東洋哲学には、最初から真理があるのだ。 >何故そこにたどり着いたのか、どのようにたどり着いたのかという過程はとりあえずどうでもいい。 >まず真理にたどり着いたと主張する人間がいて、その教えを様々に解釈して生まれるのが東洋哲学なのだ。
文章も無く、文法も無く、理解も無く、様々な人が自分勝手に様々な解釈をするのですね。
>そういう理由で、仏教に様々な宗派が生まれることになる。
仏教以外の宗教でも様々な宗派があると思いますがね。
> ~中略
>さらに本書で指摘されているのは、「知ったとみなされる状態」についてである。 >本書ではこう説明されている。 > * > 西洋であれば、「知識」として得たことは素直に「知った」とみなされる。(中略) >しかし、東洋では、知識を持っていることも明晰に説明できることも、「知っている」ことの条件には含まれない。 >なぜなら、東洋では「わかった!」「ああ、そうか!」といった体験を伴っていないかぎり、「知った」とは認められないからだ >*
なんだか ‘なあなあ主義’ に似ていますね。
‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。
.