日本人の教育 1/2

物事の優劣を論ずるときには比較法を使います。現実 対 現実の内容を比較します。

それ以外に西洋人には、現実 対 非現実の比較法もあります。

現実は千変万化します。ですから、現実 対 現実の比較結果は絶えず変化します。

非現実 (考え) の内容は変化しません。ですから西洋人は非現実の内容を自己主張として絶対化できます。絶対神の住む世界を示すことも可能です。

日本人には現実があって非現実がありません。ですから、日本人には相対があって絶対がない。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

ですから、現実 対 現実の比較に専念しなくてはなりません。だから、上と見るか、下と見るかの判断だけになります。ともすれば、封建的な世の中になります。そして、自説に力を入れるためにあらぬことか現実の内容を絶対化します。  

 山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の現実を絶対化する有様について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と書いています。自己の結論が次々と変わるので日本人は相手からの信頼が得られません。ですから、わが国には信念の人が見当たりません。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)   

 

非現実の内容は、時制のある文章により表されます。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表されます。その内容は世界観と言われています。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態でありますが、人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行きます。自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になります。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになります。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。過去から現在へ、そして現在から未来への移動は想定外になっています。ですから、日本人が新しい世界を切り開くことはあり得ないことです。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容を垂れ流します。ですから、個性がなくわが国には有力紙が育ちません。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。日本人が国際社会に貢献する度合いも限られている。  

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来、批判もできます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。留学して英語で日常会話が話せるようにすることが必要ですね。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

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