日本人の教育 2/2

 

各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy.

哲学とは考えの事である。政治に関する考えは政治哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

日本人には考えがない。それは思考を停止しているからである。だから、日本人は、無哲学・能天気の人間になっている。  

思考停止している人間に対する教育は必然的に詰め込み教育になっている。知識を詰め込まれた人間は、受け売り専門の人になる以外にない。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実 (考え) の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。Seeing is believing. 楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実・考えは頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。だから、日本語を使って英米流の高等教育に成果を上げることは難しい。   

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) を励行することにより日本人は、序列人間になっている。序列人間は序列社会 (上下社会・縦社会) を作って生活している。そして、縦割りの弊害をも味わっている。序列の形成には、通常、勝負の成績が用いられる。昔は勝負によって身分制度が定まった。だが、民は身分による制度の固定を好まなかった。明治維新身分制度の廃止の後は、立身出世の世の中になって民は勢いづきました。近年では偏差値なども都合の良い上下判断の資料とされていますから、受験競争ばかりが激化して人間性が失われている。序列順位ばかりか注目されて、その意義が等閑視されています。しかし、序列人間にはこの混乱は手の施しようもない。

日本人の礼儀作法は、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を良く心得ている必要がある。人を見損なってはならないからである。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

日本人は奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (考え) というものがない。だから、子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められている。気分・雰囲気が理性をしのいでいるところが、日本人の玉に瑕である。米国人が黒人蔑視の言葉を禁じているように、日本人も上位・下位の者に対する言葉遣いの差を禁じると理屈の通る社会への変革を呼び起こすことができるでしょうね。

 

 

 

.