奈緒美先生 2/2

 

>でも、もっともっと未来を想像してみたら、リスクを負えない人ばかりが育ったら、親の老後も大変なことになるのかもしれません。

 

そうですね。この国がひっくり返った時にも、責任者は現れませんでしたね。この世は無責任体制でしたね。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。これは、意思の無い社会の常識か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって世界に属していない。   

 

> 話は戻って、「先端までいききる」ということは、リスクや大変な部分もあるのですが、奈緒美先生が言われるように、そこに大きな価値や成長があるというのも事実だと思います。

 

そうですね。自己実現の可能性が増大しますね。     

 

>「人より遅れている」とか「恥ずかしい」とか「危険なことはさせたくない」とか、大人が目先の問題とらわれずに、子どもの未来に何が大切なのかをもう一度考え直すことが大事なことだなぁと感じています。 

 

そうですね。同感です。考え直す必要がありますね。   

日本人には現実しかない。我々日本人には非現実 (考え) の内容が存在しないので、奥ゆかしく見えても奥がない。だから、手先・目先の事柄に囚われます。軽薄になっています。     

現実の世界においては見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。楽ちんである。正解はただ一つである。考える必要はない。

非現実 (考え) は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が生じても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。その内容は変化しない。だから個人判断の基準になる。  

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神もない。マスコミも現実の内容を垂れ流す。だから、個性がない。有力紙が育たない。

個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

 

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