超低学歴 7/8 

 

>国際的に驚くほど「低学歴」な日本企業の経営陣たち   

 

日本の常識は世界の非常識ですね。

 

>冨山 有名企業の経営者など経済界の人たちが集まる宴会で、大学時代の話になると、みな不思議なくらい自分がいかに勉強をしなかったかという自慢話になるわけです(笑)。>俺は大学に行かずに麻雀ばかりやっていかとか、運動しかしていなかったとか、みな滔々と語るわけです。>それでいて「最近の若い連中は、勉強していない」とか上から目線で言うから意味不明です(笑)。>ただ、そういう人材育成モデルがある段階まで機能して、実際に有名企業の経営陣まで登れたので成功モデルになってしまったのでしょうね。 >残念ながら、日本社会の構造がこうした変化に対応できない経営者を生み出したといえるでしょう。 

 

縦社会の構造がわが国の閉塞の原因でしょうね。   

 

>なので、日本の政治家も官僚も経済人も、国際的にみると驚くほど低学歴になったしまったわけです。 

 

わが国の大学の国際的ランクの低さは、わが国の政治家の能力の低さと関係づけられているのでしょうか。

 

>小野 学力のピークが有名大学に合格した18歳というような人たちが、日本の政治や経済をリードしているわけですね(笑)。 

 

そうですね。アメリカ人もそのように見ているようですね。

‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)  

 

>冨山 いろんな組み換えや変化が起きる時、大事なことはものごとの中で何が一般、普遍的原理原則を持つか、何が普遍性を持たないかを区別することなのです。 

 

日本人には現実があって、非現実がない。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

 

>これがちゃんと自分の頭の中で整理できないと、急激な変化に対応できません。>つまり、自分が積み上げてきた個別的な体験だけで経営のかじ取りをしようとすると失敗します。 

 

そうですね。あるべき姿に基づく批判精神が必要ですね。  

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)  

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。

 

>少なくとも自分の経験の中で、普遍的に通用するものと通用しないものぐらいは仕分けできないと経営者失格です。  

 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

 

>飛行機の性能にたとえれば、早く飛びたいのか、それともクルクルと回るのがいいのか。>それともパイロットの命を守ることが最優先なのか。>それを判断できないといけません。 

 

そうですね。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はないのか。

人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。

 

 

.