暴走する自由 3/3

 

>ルソーの時代には変革を求める強い必然性があり、したがってルソーの思想を認めるべきだとするなら、同じ根拠で今はカミュを認めなければならない。  

 

そうですね。  

 

>現代の教育制度に「倫理的責任」を教える権力があるかどうかは分からない。 

 

罪の観念は個人個人で処理することになっているようですね。これは ‘信教の自由’ よるものですかね。      

 

>しかし、社会の底辺にのさばっているこの頑迷な自由の哲学を否定する能力はあるはずだ。 >この態度に変革を迫ることが、われわれの社会の変革の鍵である。 

 

そうですね。発想の転換が必要ですね。 

  

>ここまでです。

>◆欺瞞観念に満ち溢れた社会 >このルソーやカミュのことについてはともかく、今、アメリカでもヨーロッパなどでも起きているさまざまな暴力の根源には、ここでコリン・ウィルソンが言っていることが内在しているということが、今の世の中で生きている中ではじめてわかります。 

 

魔術的思考の流行ですね。狂ったサルの増殖のようなものですね。   

 

>この「自由」という言葉は、ちょっと日本語では大仰で、これに対して何か述べる才覚は私にはないですが、ただ特に 21世紀くらいになってから、日本を含めて、どこの国でも言われるようになったのが、「格差」「平等」という言葉などで、最近のアメリカの多くの暴力などにも、こういう概念が根底にあると思いますが、どうも、この概念は「利用されている」ように感じるのです。 >人類文明が登場して以来、「すべての人が平等で、すべての人に格差がない」ときなど一度もありませんでした。

 

そうですね。’人間万事不平等’ ですね。’All men are created equal’. (全ての人は生まれながらにして平等だ) は哲学 (非現実) の内容であって、現状報告ではありませんね。非現実は何処まで行っても現実と同じにはなりませんね。非現実の内容は頭の中、現実の内容は頭の外にあって、両者の所在が違っている。     

 

>それが、今になって、やたらと喧伝されるようになった。 

 

我々は規格人間になるのでしょうかね。個人の自由の余地は考えられないのでしょうかね。極端な格差と極端な平等は是正の必要があるでしょうね。是正の為には中庸の徳が必要ですね。    

 

>私自身もまた、ルソーの言う「人間は自由な人間として生まれている」のフレーズには、若い時からとても違和感を感じていました。>そして「自分は自由な人間としては生まれていない」から、いろいろと希求する。> 「自由の本質とは何か」を考える。 

 

自由とは ‘意思の自由’ の事でしょうね。考えは人人により違っている。だから、お互いに相手とぶつかり合うことになりますね。そうしたら議論・対話が必要になりますね。その個人的な能力が問題になりますね。議論・対話の能力が十分でない人も暴発は許されませんね。その取り締まりが問題になりますね。 技術力の問題ですかね。       

 

>ずっと考えてはいたけれど、全然勉強をしない人生でしたので、そのあたりがよくわからない。 >そうして、最近、ブログで書くようなこと、つまりシュタイナーの言う未来の人間とか、イエス・キリストの話とか、量子力学とかを少しずつ知る中で、 「自由の本質」 というものが何となく、ほんの少しだとしてもわかってきたような気がしないでもないです。>その観点から言えば、今の人間の状態では、「人間は絶対に自由にはなれない」と断言することができます。

 

すると、’不自由を常と思えば不足なし’ とうことになりますか。これでは、人類の進歩は望み薄ですね。そこで、今の人間の状態は改善しないといけないことになり、その方法を誰が見つけるかですね。  

 

 

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