心と和 1/2 

 

>361424 「心」と「和」という言葉は、日本にしかない。

>大森久蔵 ( 30代 専門職 ) 20/11/01 AM01 【印刷用へ】 

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> もちろん、西洋人にも、中国人にも、インド人にも、心がある。 >だが、その人そのひとだけが持っている心である。 

 

心は一人一人で違いますね。  

 

>  日本で「心」という時には、自分だけが持っている心ではなく、人々と分かち合っているものだ。 

 

それは共感 (sympathy) と違いますかね。  

 

>  私は仕事のために、全二〇巻の国語大辞典を所蔵しているが、「心」が上につく言葉をひいてみると、「心合わせ」「心意気」「心一杯」「心有り」「心得」「心覚え」「心掛け」「心配り」「心様」「心尽し」といったように、四〇〇近い言葉が目白押しになって、でてくる。 

 

さすがに大きな辞書だけの事はありますね。

 

>  三省堂の『最新コンサイス英和辞典』でハート(heart)という言葉をひいてみると、heartache(心痛)、heartbeat(心臓の鼓動)から、heartwood(材木の心材)など、十六の熟語しかない。  

 

それは辞書が小さいからでしょうね。Heart だけが心でしょうかね。    

 

>  私は、英語屋だ。全三巻の英英辞典である『Webster’s Third New International Dictionary』(ウェブスターズ・サード・ニュー・インターナショナル・ディクショナリー)を使っているが、heartが頭についた言葉は、四十あまりしかでてこない。 

 

心’ には ‘mind’ という英語゛も対応するのではないでしょうかね。   

 

>  「和」も、日本に独特な言葉だ。 >しかし、読者から、英語で「ハーモニー(harmony)」(調和)というではないかと、反論されるかもしれない。>  だが、「ハーモニー」は、「和」とまったく違う。>一人ひとりが、あることについて参加するのに当たって、合わせようと思い立って、もたらされるものだ。

 

そうですね。  

 

>  日本の「和」は、人と人のあいだの絆として、はじめから存在しているものだ。 >合わせようと思って、もたらされるのではなく、はじめから心を分ち合っているから、和が存在している。

 

そうですね。なれ合いの習慣による結果でしょうね。   

 

> 平和憲法」が定着しているのは、日本に独特な現象である。 >  日本以外の国民なら、自国の「安全と生存」を「平和を愛する(全世界の)諸国民の公正と信義」に委ねるという憲法の前文が、噴飯物だとして、吐き出してしまうことだろう。 

 

そうですね。日本人は自分が騙された時にも ‘私は相手を信頼していた’ と誇らしげに言う。自分が ‘まぬけ’ であるとの結論に達することはない。無条件で相手を信頼することが、どれほど危険で愚かなことであるかという思いに至らない。むしろ手柄のように考えている。       

 

>  ところが、日本では和を尊んで、江戸時代を通じて三世紀近く平和が保たれたために、きっと世界にも、「和」が通用すると、思い込んでいるのだろう。  

 

そうですね。日本人のなれ合いが世界中に通用する習慣と思い込んでいるようですね。   

 

>  国連のどの加盟国も、国連が闘争の場であると見ているのに、日本人だけが「平和の殿堂」だという夢を描くのも、そのためであるにちがいない。 

 

そうですね。日本人は思い込みが激しいですからね。自分の好き勝手に思い込んで得意になっている。これは現実直視ができないためでしょうね。   

 

> 日中友好」が熱心に唱えられていたあいだ、私はよく「中国人も同じ人間だから、心が通じ合うはずだ」と聞かされて、辟易したものだった。 

 

実際に中国人と交際すると分かりますね。日本で中国人が中国人にあって、地獄で仏に会ったように喜び合うことはありませんね。むしろ真逆の態度で ‘言葉が通じない’ という。これは公用語が存在しないということでしょうかね。     

 

> 「心を通じる」とか、「心を分かち合う」という表現が、外国語にないことを知らないのだ。 >  日本以外の国に、「和」は存在していない。 >日本では、心を分かち合っているからだ。

 

それは  ‘なあなあ主義’ というものですね。なれ合っていますね。それは言語の世界ではありませんね。 非言語の世界ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。  

 

 

 

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