心と和 2/2  

 

>  世界は二十一世紀に入ったというのに、戦乱や、虐政が絶えることがない。 >  世界平和は、日本の心と和の文化が、世界にひろまることによってのみ、もたらされることになろう。 >  そのために、日本文化を世界にひろめるために、努力しなければならない。

> 私は海外を頻繁に訪れるうちに、日本民族の力の源が、いったいどこにあるのか、考えるようになった。 >  日本について、驚くことが多い。  

 

 非現実 (考え) の内容は、英語の時制 (tense) のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観 (world view) と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。自己の世界観の内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べになっていて個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を以下の如く強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に力を合わせることも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

>  日本では、古代から詩の形態が、まったく変わっていない。>  世界のなかで、日本だけ、詩の形式が古代から、少しも変わっていないのだ。>  英文学をはじめとする西洋文学では、近代詩と古代詩の形式が、まったく異なっている。  

 

私は詩については不勉強なので、詩に関する発言を控えさせていただきます。  

 

>  日本でもっとも古い短歌といえば、『古事記』(七一二年)に素戔嗚尊(すさのおのみこと)の歌がでてくる。>  今日も、朝刊を手に取ると、読者からの短歌の投稿欄がある。 >  短歌に関心がない読者は、みすごしてしまおうが、そこに載っている和歌は、素戔嗚尊の歌と、形式がかわっていないのだ。 >  詩は人の心に、もっとも近い文学表現だ。 > 西洋では近代詩と古代詩との間に、長い時間的な隔たりがあるのに、日本では古代と現代が同じ時間にある。 

 

そうですね。日本語は時代の変化を受けない言語と言われていますね。歌詠みは文章にならないので意味をなさない。  

 

>  西洋や、中東でキリスト教の教会や、ユダヤ教の教会(シナゴーク)イスラム教のモスクが新しく建てられる時には、近代建築様式をもって建てられる。 

 

そうですね。西洋や中東では教義が大切ですね。形式の方は変えることができる。

 

>古代の様式で建てることはない。>  日本では、近代都市に新しく神社が建てられる時でも、神代からの昔ながらの建築様式によって建てられる。>それでなければ、私たちの心が和むことがない。 

 

そうですね。日本人の文化には、形式 (作法) があって内容 (教義) がない。だから、形式を変えることはできない。形式により日本人は気分・雰囲気を通して安堵感を得ています。   

 

 

 

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