空気を読む 1/2
>361435 「空気を読む力」と「思考停止」の関係
>匿名希望 20/11/01 PM08
>「空気を読む」という言葉にイラっとする。 > 場の空気を読むとか、あいつ空気読めないよとか。 >俺は空気が読めるとか。 >どいうわけか近年、若者や巷ではこの「空気を読む」力を、過大評価しているように思う。
日本人は気分・雰囲気に感受性が強いですからね。
>何だか、すごい空気を読む、読めないで、まるでその人が優秀かそうでないかですら、決めてるきらいがある。 >それも多くの人が。
日本人は歌詠みの傾向が強いためでしょう。
>◆「空気を読む」
そもそも、「空気を読む」というのは、言ってしまえば「周りに合わせる」ということ。
‘空気を読む’ のは ‘顔色を読む’ のと似たような能力でしょうね。非言語活動の能力ですね。
>要は、多数派側、人数が多い方についていけばいいだけの話。>ただの順応回路。
生物の群れを成す能力に関係があるのでしょうね。
>もちろん最低限のドレスコードは守る力は必要だけれど、それは、ネズミやカルガモの親子でもできる話で、別段大した能力じゃない。
生物の生存に必要な基本的な本能ですね。
>むしろこの「空気を読める」っていうことを「誇る」感じが、かなりヤバい。
それは非言語の世界での活動能力ですね。
>あくまで空気を読むっていうのは、多数派に回ることに過ぎないから。
生物は自己の安全を守るために群れをつくって生活しています。
>◆「思考する」
> 生きていく上で、持たなければならない能力。>それは空気を読む力ではなく、物事を構造的に捉える力であり、危機や状況や外圧を全体的に捉える力。
それは言語を利用した能力になるでしょうね。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の手段でもありますからね。
>構造認識が全体的な状況に対する見方とする一方で。空気を読むというのは、瞬間的な状況に対する見方。>その瞬間、その瞬間だけ。
‘空気を読む’ はナウな感じのする非言語の判断ですね。構造認識は言語による判断でしょうね。
>したがって、空気を読むことと、構造的に決断するっていうのは、まさに対極。
>◆「みんなで決める」
> 切り口を変えると、これは判断の決定権と責任はどこにあるのかという話でもある。
>構造思考は常に自分の頭で考えているので、思考も判断も自分に責任がある。
そうですね。
>反対に空気を読むというスタンスは、自分以外の「みんなに責任」があるという事に他ならない。
それは ‘一億一心’ の励みのようなものですね。責任者がいない。
>だから、空気を読む方が圧倒的に楽で、考えなくて済むし、思考力が少なくて済む。
思考が疎かであると、危険極まりないことになりますね。
>◆「主体のいないみんな」
日本人には個人主義がない。だから、わが国では個人を育てることが難しい。
> 例え駄目だったとしても、その失敗は「みんな」のせいにして逃げることができる。
責任は、大衆の中に霧散してしまいますね。
>僕が選んだのではないと。>私がえらんだのではないと。>だって選んだのは、みんなだから。と逃げることができる。
捉えどころがない人たちですね。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思の無い人には加害者意識がない。罪の意識もない。罪を着せられては大変だから逃げる。とかくこの世は無責任。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
>つまり空気を読むと、責任を取らなくていい。
そうですね。とかくこの世は無責任。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
.