本田真吾氏 1/2 

 

>360750 日本人と西欧人の活力構造の違い

>本田真吾 HP ( 壮年 建築家 ) 20/10/05 PM11 【印刷用へ】 

>私権圧力の衰弱により、日本人の活力は世界最低まで下がった。

 

私権圧力の衰弱以外にも活力低下の原因あるでしょうね。  

 

>他方、私権圧力が衰弱しても西洋人の活力は日本人ほど低下していない。 >なぜか? 

 

彼らには哲学 (考え) があるからでしょう。自己の持つ ’来るべき世界’ の内容が低下を防いでいるからでしょう。  

 日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)  

 

>もともと略奪闘争から共同体を破壊されて、周り間みんな敵という意識から自我収束した西欧人。>これでは、共認機能で仲間を捉えることができないため集団(や社会)はできない。

 

共認機能は ‘なあなあ主義’ でしょうね。なれ合いですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。非言語の世界ですね。   

 

>そこで、登場したのが、契約という観念機能に頼って関係を形成する契約社会である。

 

わが国のような‘高文脈文化’ の特徴の一つは ‘双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される’ ことである。

欧米のような ‘低文脈文化’ の特徴の一つは ‘双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない’ ことである。    

 

>これにより、自分第一・利益第一になった者たちを統合することが出来るようになった。

 

お互いにそういうことになるでしょうね。  

 

>それくらい契約は、彼らには重要な観念であり、これなしに彼らの社会やその中の個人の意識を捉えることはできない。 

 

個人の意識を捉えることは難しいですからね。   

 

>その後、契約観念は宗教(一神教キリスト教等)にも適用される。>そこでは、自我収束した、ばらばらの対立する個人が、それぞれ天の神と契約することで、神を介して関係を形成することで、疑似仲間集団や社会ができるという構造である。>だから、中世の貧困の時代のバラバラになった被支配者の大衆は、キリスト教に心底帰依することが可能になり、その結果、武力支配を補完する教団という社会統合機構が出来上がった。> 近代に入り、神は死に、神の位置に個人が鎮座する。 

 

個人本位になったのですね。  

 

>その核になったのが自由・平等・民主主義・権利などの近代観念であり、その前提に契約という観念がある。>現に、彼らにとっては宗教も結婚も就職もビジネスも契約という観念のもとで成立している。  

 

そうですね。  

 

>しかし、日本人からすると、近代観念は、直感的に怪しいとか、みんながそんなことを主張したらこれら観念は成立しないとかの矛盾を感じることが多い。  

 

日本人は、気分・雰囲気を頼りにした捉え方をしていますからね。約束事はあまり得意ではないですね。約束は信頼されていませんね。       

 

>また、信心や結婚や就職を契約という観念で捉えているわけではない。  

 

日本人は、無哲学・能天気ですからね。考え (哲学) というものがありません。日本人の宗教も形式 (儀式) があって、教義 (説教) がない。だから、日本人は形式を疎かにすることはできませんね。それをすれば、全ては無に帰する。礼儀の正しさは、日本人の必要条件ですね。    

 

>そうすると、西欧人が、そんな近代思想や契約という観念を矛盾なく主張できるのは、その主語が『自分(個人)』であり、自分の自由や平等や権利であると考えたほうが整合する。

 

個人の自主・独立を主張することですね。’個人の’ は特に ‘自分の’ ではないでしょうね。’自分も’ でしょうね。   

 

>つまり、自我収束から自我・私権の塊になった西欧人にとって、周りはみんな敵という深い意識の中で、自分を守っていくためにこれほど都合の良い観念はない。 

 

そうですね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べで個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。    

 

 

 

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