本田真吾氏 2/2  

 

 

 

>それゆえ、西欧人にとって、自由・平等・権利などの近代観念は、架空の理想社会を実現するような位相にはなく、ただ、自分が他者を押しのけて有利に生きていくための方便(本音と建前の使い分け)であると潜在的には感じているのではないか?  

 

本音 (私意・我儘・身勝手) と建前 (言い訳・口実・言い逃れ) による説明は、彼らに通じませんね。彼らの結論は理屈で決まります。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) これは、日本人の場合です。     

 

>だから、貧困が消滅して私権圧力が衰弱しても、精神の統合方法は自我収束のままなのでそれほど活力衰弱はしなかったのではないか?  

 

彼らには哲学がありますからね。自己の ‘あるべき姿’ を考えることができます。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. このような考えは日本人にはない。    

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  

 

>それに対して、日本人は、縄文からの本源性を残存したままであり、周りにいるのは仲間であるという、仲間に対する深い肯定感がある。  

 

そうですね。仲間に対する深い肯定感は、動物が群れをつくるときの性質と同じですね。それは非言語の世界ですね。彼らは言語を使わない。 

言語の世界においては、日本人は外国人から信頼されていませんね。 

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。動物が獲物を捕らえるときの早業のようなものか。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。  

 

>そこに、明治に輸入され盲目的に信奉され、学校教育により刷り込まれた近代観念は、まさに文字通り自由・平等・民主主義などの共同体的理想に潜在的に結びつきやすく、それを否定しきれず、幻想の観念に染脳され、思考停止してきた側面があるのではないか? 

 

日本語では非現実の内容は文章にならない。だから、近代観念の真似をして非現実の内容を文章化しようとすれば、それは空想・妄想の類になる。お陰様でわが国は、アニメ・マンガの大国になりました。だが、考え (哲学) による学問の大国にはならなかった。だから、わが国の大学も為体 (ていたらく) である。わが国の入試地獄も学問の発展にはつながらない。      

 

>それゆえ、貧困が消滅して私権圧力が衰弱し本源可能性が開けても、幻想も思考停止も解けず、活力衰弱していったのではないか?    

 

そうですね。日本人の励みは、序列社会の中の滅私奉公の励みにより成り立っていました。序列観念が衰えると、日本人の励みも衰えます。それは、義理 (序列関係から生じる義務) を果たす機会が失われるからです。勤勉な日本人は、外国人の社会 (非序列社会) においては ‘活力衰弱の人’ になっています。だから、義理が廃ればこの世は闇になるのであります。     

 見ることのできる内容は ‘本当’ の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも ‘嘘つき’ にはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。幻想は、現実の言葉を用いて非現実の内容を語ろうとする無謀な試みといえるでしょうね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に力を合わせることも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

 

 

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