空気 1/2 

 

>361581 空気を読む日本人と日本語

>大森久蔵 ( 30代 専門職 ) 20/11/07 PM09 【印刷用へ】

>常に相手発の日本人の性質が、あいまいで多様性のある日本語を生み出したのだろう。 >リンク

>日本語は不思議な言語である。>その表記の仕方次第で、文字情報として入ってくる印象や受け手に伝わる質感まで変わる世界でも稀有な言語だ。 

 

日本語は、気分・雰囲気を伝えるための言語でしょうね。考えるための言語にはなっていないようですね。歌詠みの為の言語かな。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。  

矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。

矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。

考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。  

 

> 漢字にカタカナ、ひらがなと、同じ言語で使用する文字が3種類存在する上、世界のどの言語よりも細かに敬語に分別が必要である。  

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて堅ぐるしい日常生活を送っている。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。  

 

> 多数の同音異義語が存在し、発音が似通っていても文脈、場面、使う漢字で意味が異なってくる。

 

それは高文脈文化の特徴でしょうね。同音異義語が多いとローマ字表記が難しくなりますね。外来語は原語 (alphabet) 表記にすると手間が省けますね。      

 

>(中略)

> 日本語の表現方法というのは、明らかに他の言語にない細かいニュアンスやキャラクター性まで紡ぎだす性質がある。 

 

日本語は現実描写に専念した言語ですね。話にうつつ (現) を抜かしてはいけないと言われています。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

 

> 語尾の言い回しひとつで、なめらかに聞こえたり、丁寧に聞こえたり、かわいらしく聞こえたり、凛々しく聞こえたり、内容そのものは同じでも、語尾を替えるだけで物事の聞こえ方が大きく異なってくる。>たとえば、あなたがオレンジを手に持っていて、それは何?と誰かに問われたときの回答として、話し手の性質や相手が誰かによって、こんなにも印象表現に種類が多様化する。> 例:>・これはオレンジ > ・これはオレンジだ (断定的な表現) >・これはオレンジね (訂正や同意を求める表現) 、、、、、、 >どれも全く同じ意味なのに、語尾を変えるだけで全く印象の違う言葉になる。

 

そうですね。  

 

> 日本語には、同じ意味をもっている表現がたくさんある。>おそらく、世界でもこんなに紛らわしい言葉はないだろうというほど、同じ言葉でも、たくさんの意味を持つ。

>(中略)

> 日本語は主語のない形でも会話が成立する言語。>さらに、語尾を「かな」や「だけど」のように曖昧表現にもできるので、主語なく“誰が”を明言しなかったり、語尾も、断言をしないことで話者が責任を一手に担うのを避けることもできでしまう。

 

とかくこの世は無責任ですね。この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。とかくこの世は無責任。      

 

> 「空気を読んで察する」ことが会話やコミュニケーションで大きな役割を担う日本語では、「曖昧表現」も対人関係で大きな鍵を握る。 

 

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

 

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