なぜ、勉強をするの

 

>以下(http://www.fujitsubame.jp/jiyuu301.html)より引用します。

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>なぜ、勉強をするの。 >この根本的な問いに、どれだけの親や教師が、答えられるだろう。 > 曰(いわ)く、良い学校に行くためよ。 >ジャア、なぜ、良い学校に行くの。 >良い会社に勤めるために。 >なぜ、良い会社に勤めるの。 >良い会社に勤めて偉くなるために。 >なぜ、偉くなるの。 >お父さんみたいにならない為よ。 >これでは、説明にならない。 >人生にとって一番大切で、楽しい期間を無為に過ごさせる以上、親は、子供にきちんと説明する義務がある。

 

そうですね。良いという単語が沢山使われていますね。我々日本人は序列観念の虜になっているのではないでしょうか。良いは序列関係の上位をただ漠然と意味しているのでしょうね。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断は、日本人にとって非常に重要である。この上下判断が疎かであると、日本語の日常会話にも差支えが出るほどである。だから、日本人は ‘太陽の方が偉いか’、それとも ’雲の方が偉いか’ とぜひともその序列関係を知りたいと思っている。

人間の序列関係にこだわらない日本人は祟り (仕返し) を受ける。だから、絶えず ’人を見損なってはいけない’ と気を遣う心境になっている。世俗的な序列の判定には、通常勝負の成績が用いられる。偏差値なども庶民に手の届く都合の良い判定基準になっている。

日本人の礼儀作法は、この序列感に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしでもある。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。日本人の尊敬は、世俗的な序列社会の序列順位の表れに過ぎない。個人的とか精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬にも浅薄さが付きまとう。

日本人は奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。

日本人には、儀式 (作法) があって、教義 (考え) がない。だから、子供の時には宮参り、結婚式はキリスト教、葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められる。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’( グレゴリー・クラーク)  

 

>子供達も馬鹿ではない。 >子供達でも、今勉強している事は、自分が、これから生きていくうえで、何の役にも立たない事は、すぐにわかる。 >子供達だけでなく、親も、教師も、大人達、皆わかっている。 >だから納得のいく答えをしてやることができない。 >そして、力ずくで、相手の意見を押さえ込んでしまう。 >ただ、勉強しなさいだ。 >成績が悪いと人格まで否定される。

 

そうですね。無残な人間関係の繁栄ですね。我々は、序列社会の序列人間だからただ諦めろということですね。 

 

>あげく、勉強など世の中の役に立たなくていい。 >役に立たないことを、勉強するところに、意義があるなどと、訳のわからない事を、言い出す始末だ。

 

言語は伝達の手段であると同時に考えの手段でもありますね。我々は日本語の枠内にはめられて考えるから、どうしても屁理屈を避けることはできません。民度が低いとでもいうのでしようかね。  

非現実 (考え) の内容は、時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。その考えの展開には際限がない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語には時制 (tense) がない。だから、日本人には世界観 (world view) がない。そして、日本人には批判精神 (critical thinking) がない。マスコミも現実を垂れ流す。だから、社会全体に個性がない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。世界観に共鳴する協力者が得られない。人類社会に貢献する度合いが限られる。 

 

(略)

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(略)

>投稿者 hoiku : 2020年07月23日 TweetList    

 

 

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