日本文化  

Record China   >日本文化を知れば知るほど、日本社会のいびつさを感じるー中国ネット   >Record Chinaによるストーリー   >・45分・   

2026824日、中国のSNS・小紅書(RED)に「日本文化を知れば知るほど、日本社会のいびつさを感じる」と題した投稿があり、中国のネットユーザーの間で話題になっている。    

>投稿者は、「筆者は昔からACG(アニメ・漫画・ゲーム)文化の愛好者である。    

>その影響もあり、日本に憧れ、日本で暮らしたい、日本の高校に通ってみたいと思っていた。    

>しかし、日本文化を紹介する動画を見れば見るほど『何だかおかしい』と感じるようになった。   

>もちろん、ネット上の動画だけを見て判断しているので、現実とは異なる部分や偏りもあるのだろう。    

>それでも、アニメや音楽を除けば、日本に対する好感は次第に薄れてきた」とつづった。    

>続けて、「何でも『かわいい』で済ませる文化や、周囲と違うだけでいじめの対象になってしまう空気には強い違和感を覚える。    

 

そうですね。日本人は12歳の少年・少女ですからね。   

 

>学園ものの少女漫画では、いじめを受けた主人公が、優しさによって相手を許すという定番の展開に一体どんな意味があるのだろうか。    

>傷つくのは結局自分である。    

>なぜそこまで周囲に合わせることが求められるのか。    

>自分の気持ちを飲み込み、さっきまで自分を傷つけていた相手と何事もなかったかのように談笑する。    

>それで何が得られるのだろうか。    

 

日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。軽薄ですね。  

 

>仲間意識なのか、一体感なのか。    

>それほどまでに周囲と同じである必要があるのだろうか」と問い掛けた。    

 

日本人には自己がない。自己実現の難しい国です。  

 

>また、「少女漫画の恋愛も社会に出る前だけの幻想のように思える。    

>作品の中では主人公たちは純粋で一途に恋をする。    

>しかし現実では、社会人になると多くが別々の道を歩み、仮に交際が続いても、漫画のような濃密な関係ではなくなることが多い。    

>漫画の純愛と、現実の日本で決して低くない不倫率との落差は、皮肉なほど大きい」と指摘した。    

>さらに、「日本はエンターテインメント産業が非常に発達している。    

 

日本は下位の文化の国ですからね。わかりやすい下位の文化を楽しむ人の数は国内にも国外にも圧倒的に多い。

 

>日本のバラエティー番組を見ていると、出演者に対して下品で面白いとは思えないようなイジりをする場面が少なくない。    

>私は何が面白いのか理解できないが、からかわれた出演者本人は笑顔で応じている。    

>本人が本当に楽しんでいるのかは分からないが、見ていて恐ろしく感じる。    

 

日本は高文脈文化 (high context culture) の国ですからね。恐ろしいですね。逆にドイツは低文脈文化 (low context culture) の国ですね。わかりやすい。         

 

[高文脈文化と低文脈文化の比較の例]

《高文脈文化》の特徴:  言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される/沈黙は不快ではない /

《低文脈文化》の特徴: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。/ 正確性が必要とされる言語  / 言語に基づく / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される / 沈黙はコミュニケーションの途絶として不快 /

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)

 

>『みんなで笑っているから面白い』という空気そのものが笑いになっているように思えるのである。    

>これも『周囲に合わせる』という文化なのだろうか」と言及した。

 

日本人には自己がない。   

 

>その上で、「日本ではエンターテインメントへの刺激が年々強くなり、人々もそれに慣れてきているという話も耳にした。    

>このままでは、笑いを求めるための演出はますます過激になっていくのではないかと思う。    

>さらに、日本社会は外の世界で何が起きているかよりも『隣人が何をしたか』『全国で最もかわいい制服ランキング』『おにぎりの食べ方10選』『女子力を高めるテクニック』といった話題ばかりに関心を向けているようにも感じる」と述べた。    

 

そうですね。日本人には世界観がない。気分・雰囲気・感情を歌に詠むようなものですね。発言が文にならないから意味 (意義) がない。         

 

>そして、「一部の価値観については、病的なまでのこだわりや迎合が見られるようにも思えて怖い印象もある。    

>最近は、日本は暮らす場所というより、旅行を楽しむ場所なのではないかと思うようになった。    

>もちろん、筆者自身が日本文化を十分理解していないだけなのかもしれない。    

>だからこそ、知れば知るほど違和感ばかりが目につくのだろう。    

>そうした文化も、一つの価値観として尊重すべきなのかもしれない」と論じた。    

 

日本人の文化は、西洋流の正統な文化ではありませんからね。下位の文化 (subculture) ですからね。大学で勉強をしなかった人でも楽しめる文化ですね。日本の文化には数の力がありますね。      

 

>これに対し、中国のネットユーザーからは「日本のアニメって、現実には存在しないものへの憧れがたくさん詰まってる気がする」    

>「日本の作品って、実写でもアニメでも全体的にすごく抑圧的な雰囲気がある気がする」    

 

そうですね。日本人の生活には夢と希望がない。不自由を常と思えば不足なしですね。   

 

>「日本は空気を読むことがすごく求められる国だし、下品なものに対して妙に寛容というか、正当化されがちな国でもあると思う」といったコメントが寄せられた。    

 

日本人は下品・上品よりも、上とみるか・下とみるかの判断に力を入れていますね。だから、日本人の判断は漫画になる。      

 

>(翻訳・編集/岩田)    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジェームズ・ベイリー氏  

>ダイヤモンド・オンライン   >人生の終わりに「心から後悔すること」ワースト1   >ジェームズ・ベイリーによるストーリー   >・4日・   

>人生は永遠には続かない。    

>では、私たちは「限られた時間」をどう生きるべきか。    

17歳で命にかかわる病気を経験し、「人生の意味」を求めて世界中の人々に1000通以上の手紙を送ったジェームズ・ベイリー氏。    

>その答えをまとめた『人生の意味――世界のあらゆる一流に教えてもらった105の答え』には、死の淵を経験した人や人生の頂点を極めた人たちの言葉も収められている。    

>彼らの言葉から見えてきた、死ぬ前に後悔しないために知っておくべきこととは。    

>(構成:田中裕子、写真:山口真由子)    

>「有限の人生」だからこそ価値がある    

>――日本の主な宗教である仏教には、すべてのものは移ろい、永遠には続かないとする「無常」の考え方があります。    

>「有限だからこそ人生には意味がある」という考え方について、どのように感じますか。    

>ジェームズ・ベイリー氏(以下、ベイリー):その考え方は、私自身の経験からもよく理解できます。    

>私は17歳のときに不整脈と診断され、2度の手術を受けました。    

>それまではスポーツが好きな、ごく普通の健康なティーンエージャーだったのに、命を落とす可能性のある病気を抱えていると突然告げられたのです。    

>この衝撃的な経験をしたことは、私の人生に大きな影響を与えました。    

> 病気は私にとって災いであると同時に、ある意味では恵みでもあったと思います。    

>人生を最大限に生きることの大切さを強く実感するきっかけになったからです。    

>命を「永遠に続かないもの」として捉え、今あるものに深く感謝できるようになった。     

> それにもし1000年生きられるとしたら、人生はきっと退屈なものになるでしょう。    

>限りがあり、はかないからこそ、人生には意味があるのです。    

> 命を落としかけた経験を持つ人たちから届いた手紙を読むと、彼らがとりわけ「人生を楽しむこと」の大切さを強調しているのがわかります。    

>その中でも、私が大切にしているメッセージの一つがデイヴィッド・スミスのものです。    

> 彼はイギリスのアスリートで、パラリンピックの金メダリストです。    

14年間のがん闘病と7度の脊髄手術を乗り越えたサバイバーですが、四肢麻痺で手紙を書くことが難しいため、電話で話を聞きました。    

>その答えはとても力強いものでした。    

>「退職してから人生を楽しもう」はダメ    

>ベイリー:彼が言うには、金メダルを獲得したことは自分にとって大きな意味があったものの、他人にとってはそうではなく、驚くほどすぐに忘れ去られることを思い知ったそうです。    

>「だからエゴに駆り立てられて、外部から得られる評価や称賛のためだけに何かをするのは、危険なことだ」と彼は語ります。    

> そして、今の自分にとって最も安らぎと充足を覚えるのは、日の出と日の入りを見ることだと語っていました。    

>「スキーの超難関コースを滑り降りなくても、ただ起きてコーヒーを味わうだけでうれしいんです」と。    

> 終わることや失われることに注目するのではなく、今この瞬間を生き、呼吸していることそのものを感じる。    

>それこそが人生の意味だと言えると思います。    

>――40代、50代のビジネスパーソンの中にはミッドライフ・クライシス、いわゆる「中年の危機」に直面している人も少なくありません。    

>「今を楽しむこと」が難しくなっている人たちに、アドバイスをお願いします。    

>ベイリー:先輩たちにアドバイスするのは気が引けるのですが、何歳であっても、大切なのは人生の意味や目的を探すことを先延ばしにしないことだと思います。    

>今日この瞬間から、自分の人生の意味を考え始めてください。    

> また、「退職するまでの20年間を乗り切って、その後に人生を楽しもう」などとは考えないほうがいいでしょう。    

>そうした考えは人生の終盤に、大きな後悔をもたらします。    

> 自分自身と向き合い、何をしているときに心が躍るのかを見つめる。    

>そこから始めることで活力を取り戻し、日々を充実させ、後悔の少ない人生を送れるのではないでしょうか。    

 

そうですね。私も90歳に近づいていますが、ただ生きているだけで四季の移り変わりを楽しんでおります。もう他人に踊らされることはありません。          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大権干犯に当たらず  

>日刊ゲンダイDIGITAL   >天皇と戦争の世紀(2) 軍部の「大権干犯に当たらず」の説明いらだち 【本で読み解くNEWSの深層】   >日刊ゲンダイDIGITALによるストーリー   >・2日・   

>高市政権による皇位継承のねじ曲げ問題と終戦記念日の重なりから、改めて昭和天皇に注目が集まっている。    

>「天皇五代と戦争」保阪正康著    

>◇ ◇ ◇    

>明治天皇から数えて現在の天皇まで5代。    

>そこに注目して日本の近現代史をたどるのは本紙連載でもおなじみの作家。    

>江戸時代の終わりまで日本では天皇は権威だけの存在で、実際の権力は将軍に握られていた。    

>それが変わったのが明治時代。    

>権力と権威が一元化したのだ。    

>しかし実は明治新政府では旧薩摩・長州の下級武士を中心とする臣下の者たちが政治と軍事の権力を天皇に付与するが、実際は自分たちが主体になって政治と軍事を動かした。    

 

そうですね。大きな誤魔化しをしたのですね。   

 

>要するに近代日本は構造的な矛盾をかかえて出発したのだ。   

 

こうした構造的な矛盾は今も昔も変わらない。   

 

>天皇自身も次第に自覚を強め、伊藤博文が首相になると枢密院の審議に毎回出席し、これは伊藤への強力なサポートとなった。    

5代の天皇の置かれた立場や内面を資料から読み取る著者の目は鋭く明快。    

>昭和天皇は、満州事変で陸軍が自らの命令もないまま満州に兵を送り込んだ際、参謀総長の報告に「やむを得ざるも、今後気をつけるように」と叱責した。    

 

責任の所在があいまいですね。参謀総長は責任者ではないのでしょう。      

 

>天皇の大権干犯と目されてよいものを天皇自らが追認し、軍部に妥協してしまったのだ。    

 

それは残念なことですね。   

 

>この後も天皇は何度も軍部の独走に悩まされながら「大権干犯に当たらず」との説明に「またか、また、こういうことなのか」と孤独に苛立っていたという。     

 

日本人には意思がない。意思のない人間には責任もない。責任のない人間には大権もない。孤独に苛立つのも無理はない。       

 

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2026年3月、名護市辺野古沖で研修旅行中だった、同志社国際高校の生徒を乗せた小型船2隻が転覆した事故。高校2年生だった武石知華さん(17)が死亡しました。  

特別調査委員会 渡辺徹委員長の報告は以下のようなものです。    

「本件事故を生じせしめた原因の根底には、多くの教職員において、生徒の身体生命の安全を確保するために何をなすべきかという観点での大きな『想像力の欠如』があった。およそ非難を免れず、猛省しなければならない」     

渡辺徹委員長は孤独に苛立っていたでしょうか。彼は第三者ですからね。それほどでもないでしょうね。       

調査報告書について、知華さんの両親のコメントは以下のようなものでした。

「辺野古コースに関わった、多くの学校関係者の当事者意識のなさが際立っているように思いました。何度も止める機会があったのに、その全てが素通りされてきたこと。読み返すたびに本当にやりきれない思いが募ります」    

そうですね。全てが素通りされました。「大権干犯に当たらず」ということでしょうね。これは昭和天皇と似たような苦しみですね。孤独に苛立つのも無理はないですね。とかくこの世は無責任。      

 

日本人の無責任を打ち切ることが必要ですね。これは非常に大切なことです。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤敏氏  

>ダイヤモンド・オンライン  > 【大人の教養】 中国のエリートが必死で覚えた「四書五経」とは? なぜ学問が「試験勉強」になったのか   >伊藤敏によるストーリー   >・2日・   

>試験に出るところを覚え、正解の型を身につける。    

>気づけば「何のために学ぶのか」が見えなくなっていた――。    

>そんな現代の受験勉強にも通じる問題を、千年以上前の中国も抱えていた。    

>その背景にあったのが、官僚登用試験「科挙」と、中国のエリートたちが学んだ「四書五経」だ。    

>なぜ古典を学ぶことが、出世のための試験勉強へと変わっていったのか。    

>そして、それを立て直そうとした朱子の改革は、なぜ再び試験制度にのみ込まれたのか。    

>本記事は、『地図で学ぶ深読み世界史』の著者、世界史講師の伊藤敏氏が、四書五経と科挙の歴史から、「学ぶとは何か」を読み解く寄稿記事である。    

>「四書五経」は何を学ぶための本だったのか    

> 試験に出る箇所を覚え、正解の書き方を身につける。    

>難しい問題を解く技術は上がっても、その学問が本来何を問いかけているのかは、しだいに見えなくなっていく。    

> 現代の受験勉強にもありそうな話だが、同じような問題が、かつての中国でも起きていた。    

>その背景にあったのが、官僚を選ぶための試験である「科挙」である。    

> 中国のエリートを目指す人々が学んだものとして知られているのが「四書五経」である。    

>四書は『大学』『中庸』『論語』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』を指す。    

>もともと儒教の重要な経典とされていたのは、四書よりも五経のほうであった。    

>五経とは、古代中国の政治や儀礼、詩歌、歴史、思想を伝える記録の集まりである。    

>『易経』は、占いを通して世界の変化を読み解こうとする書物である。    

>古代の占いは単なる運試しではなく、天や神の意思を知り、政治や戦争の判断を下すための重要な手段であった。    

>『書経』は、古代の王や政治家の言葉、政治上の出来事を収めた書物である。    

>『詩経』は中国最古の詩集とされ、祭礼の歌から民衆の生活を歌ったものまで、さまざまな詩を収めている。    

>『礼記』は、儀礼や社会制度、身分秩序、日常の作法などを記した書物である。    

>『春秋』は、出来事を年代順に記録した歴史書である。    

> つまり五経には、古代中国の人々が世界をどのように理解し、国を治め、社会の秩序を保とうとしたのかが記されているのである。    

> ところが、これらの経典はあまりにも古い言葉で書かれていたため、後世の人には簡単に読めなかった。    

>同じ漢字でも時代によって意味や使い方が変わり、背景となる制度や習慣も失われている。    

>そのため、経典を読むには、一つひとつの文字や言葉の古代における意味を明らかにする必要があった。    

>そこから発達したのが、「訓詁学」と呼ばれる学問である。    

>古い言葉の意味を確定し、経典を正しく読み解くための研究であった。    

>科挙が「学問」を試験勉強に変えていった    

> この訓詁学の重要性をさらに高めたのが科挙である。    

>隋の時代に始まった科挙は、その後の王朝で官僚を選ぶ中心的な制度へと発展した。    

>家柄だけではなく、試験によって能力を測り、官僚を採用しようとしたのである。    

> 科挙で出世を目指す人々にとって、儒教の経典は単なる教養ではなかった。    

>試験に合格し、官僚として生きていくために、どうしても学ぶ必要があった。    

>経典の言葉を正確に理解して引用し、問われたテーマについて文章を書く能力が、国家を担う人材にふさわしいかどうかを判断する基準になったのである。    

> 科挙は、血筋にかかわらず、学問によって社会的な地位を得られる可能性を広げた。    

>その一方で、学問を試験対策へと変えてしまう側面もあった。    

>試験に出る解釈を覚え、正解とされる文章の型を身につける。    

>経典の言葉には詳しくても、その教えが人間や社会にとってどのような意味を持つのかを、深く考えない人も現れた。    

> 現代でも、点数を取ることが目的になると、何のために学んでいるのかが見えなくなる。    

>中国でも、科挙が広がるなかで同じような問題が生まれていたのである。    

>朱子はなぜ「四書」を学びの中心に置いたのか    

> そうした儒学のあり方を大きく組み替えた人物の一人が、南宋の儒学者である朱熹、一般に朱子と呼ばれる人物である。    

> 朱子は、膨大で難解な五経に入る前に、儒教の基本的な考え方を体系的に学ぶ必要があると考えた。    

>そこで重視したのが、『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四書である。    

>『大学』と『中庸』は、もともと『礼記』に含まれていた文章である。    

>朱子はそれらを独立した書物として扱い、孔子や弟子たちの言葉を伝える『論語』、孟子の議論を収めた『孟子』と合わせて、儒学を学ぶための基本的な経典に位置づけた。    

> 朱子が四書そのものを書いたわけではない。    

>しかし、この四冊を一つの学習体系として重視し、注釈を加えたことで、「四書」という枠組みが広く定着したのである。    

>四書は五経に比べ、人間はどのように生きるべきか、社会をどのように治めるべきかという問題をつかみやすい書物である。    

>『大学』は、自己を修めることと家や国家を治めることのつながりを説く。    

>『中庸』は、極端に偏らず、人間や社会の調和を保つことを考える。    

>『論語』には、孔子と弟子たちの対話を通して、学問や政治、人間関係についての考え方が示されている。    

>『孟子』では、人間の本性や理想の政治をめぐる議論が展開される。    

> 朱子は、これらの書物を読むことで、経典の文字を覚えるだけではなく、儒教が目指す人間像や社会秩序を理解できると考えた。    

>「試験勉強」を変えるはずの四書が、また試験対策になった    

> ところが、ここにも皮肉がある。四書を中心に儒学を学び直そうとした朱子の体系も、後の時代には科挙の基準として採用された。    

>朱子の注釈が試験における標準的な解釈とされ、受験生たちはその内容を学ばなければならなくなったのである。    

> 試験対策に偏った学問を立て直すために整えられた四書が、やがて新たな試験勉強の中心になったのである。    

>この流れを見ると、四書五経は単なる古典の書名ではないことがわかる。    

>五経を読み解くために訓詁学が発達し、科挙によって経典の学習が出世と結びつき、その弊害を乗り越えるために朱子が四書を体系化する。    

>そして、その四書もまた科挙の基準として定着していった。    

> そこには、学問と試験制度をめぐる長い歴史がある。    

>科挙は、広大な中国を統治する優秀な官僚を選ぶための仕組みであった。    

>古典を読み、文章を書き、政治や社会について論じる力を試すという点では、非常に高度な人材選抜制度だったといえる。    

> しかし、どれほど優れた試験制度でも、合格すること自体が目的になれば、学問は型にはまりやすくなる。    

>正解を覚えることと、自分の頭で考えることは、必ずしも同じではない。    

 

そうですね。    

 

>中国のエリートたちは、四書五経を通して、政治、倫理、歴史、社会秩序について学んだ。    

> 同時に、そこには、試験のための学問が本来の思想を見失っていくという問題もあった。    

 

学問は他人の考えを調べて自己の考察を加えること。本来の思想は自分の考えのことですね。   

 

>四書五経と科挙の歴史が現代に伝えているのは、古典の知識だけではない。    

>人材をどのように選ぶのか、試験で何を測るのか、そもそも学ぶとはどういうことなのか。     

 

当面の問題を解決できる人を選ぶ。陳述に矛盾の存在の有無を調べる。学ぶとは新しい考えを得ること。      

 

>私たちが今も向き合っている問題を、千年以上前の中国もまた抱えていたのである。   

 

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 (お) う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。経文など漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

・・・・・

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北狄 (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木戸次郎氏  

>集英社オンライン   >いまや外国人には ”5割引きの国“ に … 「日本は巨大なドン・キホーテになった」円安ニッホンヘノ警鐘、「責任ある積極財政」の責任は誰が取るのか   >13時間・   

>1ドル163円を突破し、一時7万円を超した日経平均株価も6万1000円台に下がった。    

>そして高市早苗政権の支持率も下落傾向にあり、毎日新聞が7月に実施し世論調査ではマイナス10ポイントの41%まで落ち込んだ。   

>高市総理は支持率が下落したことについて「原因がわからない」などと述べるが、ビジョンのない経済政策に国民がしびれを切らしたという指摘は多い――。   

 

そうでしょうね。政治には政治哲学が必要ですね。      

 

>「責任ある積極財政」の責任の所在   

>「責任ある積極財政」高市総理、片山財務大臣が繰り返し口にする言葉である。    

>しかし、私はこの言葉を聞くたびに、一つの疑問が頭から離れない。   

>その「責任」は、一体誰が取るのだろうか。

 

そうですね。責任は誰も取らないでしょうね。この国が戦争に負けた時のも責任者は出ませんでしたからね。   

 

>政治家の世界で責任とは、多くの場合「辞任」で終わる。    

>支持率が下がれば辞める。    

>選挙に負ければ辞める。    

>不祥事があれば辞める。    

>しかし、それは本当に責任を取ったことになるのだろうか。一度膨らんだ国債残高は消えない。    

>傷ついた円の信認も、一度失われた国際競争力も、辞表一枚で元には戻らない。    

>政治家は辞任できる。    

>しかし、日本国民は辞任できないのである。    

 

そうですね。だから国民は政治家の言動には注意を払う必要がありますね。国民が全員奈落の底に落ちてからでは遅い。我々は政治音痴ではいられない。      

 

>その象徴的な場面を私は今でも鮮明に覚えている。    

>高市総理が就任後初めて迎えた衆院選の選挙速報番組で、爆笑問題の太田光氏が物価高対策に触れ、「もし出来なかった場合は、どう責任を取るのですか」と問い掛けた。    

>これは単なる揚げ足取りではない。    

>日本の政治は、結果が出なかった時の責任の所在が曖昧になりがちではないかという、多くの国民が抱く疑問を代弁した質問だった。    

 

そうですね。日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。いったん事が起こった時の責任者探しが大変になる。   

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)    

 

>責任の所在を「何か意地悪やな」でごまかす高市    

すると高市総理は、「何か意地悪やな、最初からできへんと決めつけんといてください」と急に焦った様子で関西弁で応じ、その後も「一生懸命やるだけです」という趣旨の説明に終始した。    

 

これではA級戦犯をも見逃すことになりますね。彼女も見逃されるのか。      

 

>もちろん、一生懸命取り組む姿勢を否定するつもりはない。    

>しかし、それは責任とは別の話である。   

 

そうですね。一生懸命取り組む姿勢は意思の正当性とは関係ないですね。      

 

>努力は責任ではない。    

 

そうですね。努力だけをするのは家畜ですね。    

 

>結果に対する責任を問われている場面で、「頑張ります」と答えるだけでは自己満足の域を出ない。

 

そうですね。意思のある所に方法がある。Where there’s a will, there’s a way.

意思のない人には方法がない。待てど暮らせど方法が出ない。            

 

>だからこそ、「睡眠時間はゼロから3時間です」と激務を語る姿にも私は違和感を覚える。それだけ働いているという自己アピールなのかもしれないが、国民が求めているのは睡眠時間の短さではない。結果であり、その結果に対してどのように責任を負う覚悟があるかなのだ。    

 

そうですね。睡眠時間では表せない結果の問題ですね。それが彼女に理解できるとよいですね。         

 

>6年間で円の国際的価値は4割近く失われた    

>高市政権は台湾有事という、これまでタブー視されてきた問題にも積極的に踏み込んだ。    

>国家観として評価する向きもあるだろう。    

>しかし、その一方で、田中角栄元総理が日中国交正常化を果たして以来、半世紀以上かけて築いてきた中国との経済関係を転換するのであれば、その経済的コストまで含めて国民へ説明する責任があるはずだ。    

 

そうですね。国民の理解が大切ですね。      

 

>さらに、今回の骨太の方針ではAI、半導体、防衛、GXなどへの成長投資が大きく打ち出された。    

>その方向性そのものを否定するつもりはない。    

>しかし、「責任ある積極財政」と言う以上、その政策が期待した成果を生まなかった時、誰がどのように責任を負うのかまで語られなければならない。    

>さらに深刻なのは円である。    

>この6年間で円の国際的価値は4割近く失われた。    

>分かりやすく言えば、6年前の1万円は、海外では今や6000円程度の購買力しか持たなくなったということである。    

>海外旅行へ行けば、その現実を嫌というほど思い知らされる。    

>100ドルを両替するだけでも、手数料まで含めれば1万5000円近くになる。    

 

低賃金で低物価’ は発展途上国の相場ですね。我が国もついに途上国の仲間に入ったか。AI、半導体、防衛、GXなどが高く売れたら我が国の問題は解決しますね。それ以外のところに走ってゆくと良くない。        

 

>とにかく安い日本の「ドン・キホーテ二乗現象」    

>反対に外国人旅行者から見れば、日本は円安だけで4割引き、さらに免税まで加われば体感的には5割引きの国である。   

>今や彼らはドン・キホーテへ安い買い物をしに来ているのではない。   

>日本そのものが巨大なドン・キホーテになってしまったのである。    

 

そうですね。途上国の仲間ですね.。   

 

>そして、その巨大なドン・キホーテの中で、さらにドン・キホーテへ立ち寄り、免税で買い物を楽しむ。    

>私はこれを「ドン・キホーテ二乗現象」と呼びたい。    

>笑い話のように聞こえるかもしれない。    

>しかし、笑っている場合ではない。    

>4割引き、いや免税まで加えれば5割引き。    

>その値札が付けられているのは家電でも化粧品でもブランド品でもない。    

>日本という国そのものなのである。    

 

そうですね。素顔の日本ですね。   

 

>それにもかかわらず、政府は新NISAを積極的に推進し、企業へ補助金を投入し、株価は史上最高、税収は過去最高だと成果を強調する。    

>しかし、それらは円安によって押し上げられた「見かけの繁栄」に過ぎない。    

>私は以前から、日本株はいまや「砂上の楼閣」の上に築かれていると申し上げてきた。    

>「税収は過去最高」は見かけの繁栄でしかない    

>さらに私が違和感を覚えるのは、「税収は過去最高」という政府の説明である。     

>確かに税収は増えている。    

>しかし、それは国民が豊かになった結果ではない。    

>物価が上がれば消費税収は自然に増える。    

>円安によって企業の売上が名目上膨らめば法人税も増える。    

>賃金が上昇すれば所得税も増える。    

>しかし、その一方で実質賃金は伸び悩み、多くの家庭は以前よりも生活の苦しさを感じている。    

>政府は過去最高の税収を成果として語るが、その裏側では国民の実質的な購買力は低下し続けているのである。     

>税収過去最高とは、日本経済が強くなった証ではない。    

>円安と物価高によって名目の数字が膨らんだ結果に過ぎない。    

>株価だけではない。    

>税収まで「見かけの繁栄」で語られるようになったとすれば、それは極めて危うい発想と言わざるを得ない。    

>トランプ政権との間で約束した莫大な防衛装備品の購入も、その多くはドル建て決済である。    

>円安になればなるほど、その負担は最終的に国民へ跳ね返る。    

>台湾有事への備えも、中国との経済関係の見直しも、それ自体を否定するものではない。    

>しかし、その政策が生み出すコストまで国民に説明して初めて、「責任ある政治」と呼べるのである。    

 

そうですね。   

 

>覚悟なくして「責任ある」という言葉だけが一人歩き    

>「責任ある積極財政」と言うのであれば、その責任は辞任では済まない。    

>本当の責任とは、日本円の価値を守り、日本という国家の信用を守り、その財産を次の世代へ引き継ぐことである。    

 

そうですね。   

 

>その覚悟なくして「責任ある」という言葉だけが一人歩きするのであれば、それは責任ではなく、単なる政治的キャッチコピーに過ぎない。   

 

その覚悟は難しいですね。未来社会の建設計画になりますね。      

 

>政策には必ず恩恵とコストがある。    

>そのコストまで含めて国民に説明し、結果を検証し、失敗まで含めて責任を負うことこそ、本来の政治である。

 

日本人に計画性があればよいですね。   

 

>今、日本に必要なのは株価を上げることではない。    

>円の国際的価値を取り戻すことである。    

>国民は株価で生活しているのではない。    

>円で生活しているのである。

 

そうですね。   

 

>株価は円建てで上がる。    

>しかし、世界は通貨の価値を通じて、その国の力や購買力を評価する。    

>株価が史上最高値を更新し、税収が過去最高を記録したとしても、円の価値が下がり続け、国民の暮らしが豊かにならないのであれば、それは繁栄ではない。    

 

そうですね。   

 

>ただ数字だけが踊っている「見かけの繁栄」である。    

>日本の政治に最も欠けている「責任を負う」文化    

>だから私は、株価だけを見て日本の未来を語るつもりはない。    

>税収の数字にも惑わされない。    

>円を見る。    

>国力を見る。    

>そして、その先にある日本の未来を見続けたい。    

>政策は発表した瞬間に終わるものではない。    

>結果を検証し、その責任を負うところまでが政治である。    

 

そうですね。   

 

>日本の政治に最も欠けているのは、政策をつくる能力ではない。    

>政策を最後までやり切り、その結果に責任を負う文化である。    

 

日本人には意思がない。意思のある所に方法がある。それが問題である。      

'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

 

>そして、その責任とは辞任ではない。    

>円の価値を守り、国民の財産を守り、日本という国家の信用を守ることである。    

 

そうですね。   

 

>それこそが「責任ある積極財政」の本当の意味ではないだろうか。    

 

そうですね。   

 

>「責任ある積極財政」とは、未来へ借金を残すことではない。    

>未来へ信用を残すことである。    

 

そうですね。日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任のない人間には信用がない。信なくば立たず。政治音痴ではいられない。          

 

>取材・文/木戸次郎    

 

 

 

 

他人任せ  

>テレ朝NEWS   >“他人任せ”の安全管理「猛省を」辺野古沖・転覆事故 調査委員会が会見   >テレ朝newsによるストーリー   >・2時間・   

>女子高校生が亡くなった、辺野古沖の転覆事故。   

>明らかになったのは、学校側のずさんな安全管理でした。    

>学校側 一度も下見せず    

>今年3月、名護市辺野古沖で研修旅行中だった、同志社国際高校の生徒を乗せた小型船2隻が転覆した事故。    

>高校2年生だった武石知華さん(17)が死亡しました。    

>学校側が依頼した調査委員会の会見。    

>まず指摘したのは、危機管理や安全管理の体制についてでした。    

>特別調査委員会 渡辺徹委員長「同志社国際高校においても、リスク管理本部や危機管理委員会は、規定上の根拠や分担が不明確なまま形骸化し、実効的に機能しておりませんでした」    

>2019年に作成された高校の危機管理マニュアルは、2年ごとに行うことになっていた見直しが、形式的なものにとどまっていました。    

>また、研修旅行を含む校外活動時の危機管理に関する記載は全くありませんでした。    

>そして、事故が起きた辺野古沖の見学コースについて。    

>2023年に始まった、この取り組みは、今回の事故で死亡した『不屈』の船長の提案から始まったものでした。    

>30日に知華さんの両親が公開した2023年の研修旅行の映像には、海上保安庁のものとみられるボートと並走している様子が記録されています。  

>参加した生徒の感想文には、不安や恐怖を感じたことが記載されていました。    

>報告書によると、実施に向けて、学校側はボートの大きさや形状、航路や安全性を、現地で下見をしていませんでした。    

>天候による中止の判断基準などもなかったため、出航の可否は事実上『不屈』の船長に委ねられていました。    

>翌年も、大きな変更もなく実施されました。    

>前年の研修終了後、報告する会議はなく、生徒が感じた恐怖も教師間で引き継がれることはありませんでした。    

>“他人任せ”の安全管理「猛省を」    

>繰り返された安全確認の不備。    

>それは今年も変わりませんでした。    

>特別調査委員会 渡辺徹委員長    

>「本件事故を生じせしめた原因の根底には、多くの教職員において、生徒の身体生命の安全を確保するために何をなすべきかという観点での大きな『想像力の欠如』があった。    

 

日本人は無哲学・能天気ですからね。自分が責任者であるとは思っても見ないですね。      

 

>およそ非難を免れず、猛省しなければならない」     

 

日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任者としては不適当な人物ばかりですね。      

 

>調査報告書について、知華さんの両親のコメントです。    

>知華さんの両親    

>「辺野古コースに関わった、多くの学校関係者の当事者意識のなさが際立っているように思いました。    

 

そうですね。もちろん無責任な人間には当事者意識はありませんね。   

 

>何度も止める機会があったのに、その全てが素通りされてきたこと。    

 

意思のある所に方法がある。Where there’s a will, there’s a way.   

意思のない人間には止める機会はありませんね。    

 

>読み返すたびに本当にやりきれない思いが募ります」    

 

日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。だから、事故が起きても責任者を出すことが難しい。この国がひっくり返った時でさえ、政治の責任者は出せなかった。本当にやり切れない気持ちです。外国人もそう思っているかもしれませんね。         

 

>学校法人同志社は「内容の精査および再発防止策等の検討が完了し次第、速やかに記者会見を開催する」としています。    

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。実況放送・現状報告に終始する。現実の内容ばかりである。

わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。現実ばかりがあって非現実の内容 (視点・論点) がない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会に対して木鐸の役割を果すことはない。 [木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 

「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。リーズン (理性・理由・適当) の価値は教養により高められる。我々日本人は他人の受け売りを学ぶばかりで、自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人主義がなく、個人の価値が低い。社会に有能な指導者が現れない。        

英米流の高等教育機関において、自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば、独創性が認められると学位 (博士号など) が得られる。ぜひ獲得すべき知性の保証です。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

大学名  

>マイナビニュース   >日本では「大学名」が重要、アメリカでは「専攻」がすべて…大学選びがここまで違うワケ   >1日・   

>アメリカでは、「将来、主専攻と副専攻として2つの専門分野の勉強をしたい」という高校生も増えています。    

>自分はサクソフォンが上手なので音楽家としてセミプロやプロのキャリアを目指すが、同時に法学もやっておきたいとか、ファイナンスをやりながらアジアの文化も勉強したいといった組み合わせも可能です。    

>その上で、「両方の分野で評価の高い大学」という観点で志望校を決めていくことになります。    

>何よりも、専攻を決めてそこから志望校を絞っていく、また実学系に加えて人文系の副専攻も学べるというシステムは、まさにAI時代の人材育成の方向に沿ったものだと言えます。    

>AIが初級の知的労働を次々と置き換えていき、グローバル化がさらに進んでいく時代。    

>一握りの天才だけでなく、「第2グループ」と呼ぶべき、自己管理力と実行力を備えた若者こそが今後ますます求められることになります。    

>では、そうした人を育てるために、親や学校、周りの大人たちは、子どもに何を伝えればよいのでしょうか?     

>本書の著者は、米国東部のニュージャージー州プリンストンに30年以上暮らし、作家・ジャーナリストとして活動しつつ、現地で3人の子育てを経験。その傍ら、プリンストン日本語学校高等部で、数多くの日本人・日系人の高校生を指導し、アメリカの名門大学に送り出してきた教育者でもあります。    

>そうした経験なども基に、アメリカの大学が思い描く「期待される18歳の人物像」を出発点として、幼児期から思春期に至るまで、年齢に応じてどんなメッセージを子どもに伝えるべきかを具体的にお話しします。    

>なぜアメリカでは「大学名」よりも「専攻」が重視されるのでしょうか。      

 

それはアメリカ人に序列メンタリティがないからでしょう。日本の大学は人間序列の形成に役立つための手段ですね。姿を変えた我が国の身分制度ですね。         

生涯不変の身分を自助努力で変えることのできる制度に改めたことで国民は喜んだ。しかし明治維新では序列社会そのものからの脱出はできなかった。    

 

>日本では偏差値や大学名が就職で重視される場面が少なくありませんが、アメリカでは大学で何を学ぶかが、その後のキャリアに直結します。    

>大学選びの考え方に表れる、日米の教育と雇用の違いについて、『世界の一流は「子ども」に何を教えているのか』(冷泉彰彦/クロスメディア・パブリッシング)から抜粋してご紹介します。    

>大学で学ぶこととキャリアの関係は、日本とこう違う    

>アメリカの受験生は、どうやって大学選びをしているのでしょうか?     

>まず王道を行くのであれば、自分の将来の専攻をあらかじめ決めておき、その専攻の部分で最も評判の高い大学から順に調査していくということになります。    

>これが選択方法としては最も間違いがないし、出願にあたって大学側の心証も非常によくなります。    

>たとえば、理工系の場合は特にそうなのですが、「学部での専攻」がそのまま就職や院進学など将来のキャリアに直結していきますし、その中で「各校の評判」を調べていくことで、志望校が決まってくるのです。    

>東海岸で言えば、バイオ・メディカル・エンジニアリング(医療系の生化学工学)であればジョンズ・ホプキンス大学がいいとか、原子核物理ならプリンストン大学、ナノテクならペンシルベニア大学(Uペン)、宇宙航空ならジョージア工科大学、コンピューター・サイエンスやAIならカーネギー・メロン大学といった具合に、著名な教授の存在やカリキュラムの卓越性などでの評価があります。    

>たとえば、コンピューター・サイエンスに関して言えば、西海岸のシリコンバレーが全米の中心であり、そうした環境に育った高校生の中にコンピューター・サイエンスの専攻を志望する人数は多くなっています。    

>コンピューター・サイエンスに特化した教育ということで言えば、西海岸にはカリフォルニア工科大学(カルテック)という存在があるものの、カルテックは定員が大変に少ない狭き門であるため、学生が東海岸寄りのピッツバーグにあるカーネギー・メロン大学に流れてくるのです。    

>西海岸にも、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)やUCバークレー、あるいはスタンフォードといった名門校はあるのですが、コンピューター・サイエンスという専攻を決めている受験生は、「カルテックがダメなら遠くてもカーネギー・メロン」という選択をするわけです。    

>ビジネス専攻の場合も事情は同じです。    

>金融工学ならUペン、マクロ経済ならプリンストン大学やシカゴ大学、ジャーナリズムならコロンビア大学やシラキュース大学、国際関係ならジョージタウン大学やタフツ大学などというように、大学ごとに得意分野というのが世評として確立している場合は、そうしたものを参考にしながら、教授の陣容やカリキュラムなどを調べて志望校を決めていくことになります。    

>たとえば「旅行業のマネジメント」に特化した教育を行う学科を持っていて、それが国際的に評価されているコーネルのような大学は、この分野でのキャリアを目指す高校生には憧れの的ということになるわけです。    

>なぜなら、学部レベルであっても、ビジネスにおける即戦力になるようなスキルを教え、労働市場もこれを評価するからです。    

>たとえばベンチャー企業が成功して、全国単位のマーケティングを展開しようとした場合に、大学でEコマースを専攻した若者を採用して、いきなりすべてを任せるということはよくあります。    

>さらに、将来は医科大学院あるいは法科大学院というような「職業大学院」から有資格専門職を狙うのであれば、それぞれの「学部段階での専攻」――つまり「プリ・メッド(Pre-Med)」あるいは「プリ・ロー(Pre-Law)」の評価の高い大学、そして難関大学院への合格率などを見て決めるということもあります。    

>こうした制度は、グローバルスタンダードとなっている「ジョブ型雇用」と裏表の関係にあります。    

>日本では、資格を必要とする「士業」と、理系の技術職を除くと、官庁も民間も「メンバーシップ雇用」がまだまだ多数派です。     

 

そうですね。やくざもメンバーシップ雇用ですね。彼らはジェネラリストです。      

 

>社会人になって、最初に配属された職種を続けてキャリア形成するよりも、定期的に職種を変えて多くの職種を経験し、「総合的な人材=ジェネラリスト」になるのが出世の道になっています。    

>ですから、入社の時点では多くの場合、大学での専攻は重視されません。    

 

そうですね。  

 

>偏差値の高い大学に入試で受かったこと、あるいは偏差値の高い高校出身であることなどが重視され、大学で学んだ内容は多くの場合「気にかけない」のです。     

 

そうですね。それは序列メンタリティのなせる業ですね。人間序列は没個性の競争でなくてはなりません。個性の競争は参入の機会を減らし不公平になる。         

だから、わが国では個性を大切にする個人主義は利己主義とまちがえられている。我が国における自己実現はむずかしい。   

 

>なぜなら、仕事に必要なことは、大学で学んだことではなく、企業内・現場で教える(OJTを行う)のが普通だからです。    

 

そうですね。それは徒弟制度ですね。せっかくの高等教育が無駄になりますね。    

 

>グローバルな世界はそうではありません。    

>公務員になりたければ法律と行政学を、経理の仕事がしたければ会計学や財務を、しっかり大学で学んだ人でないと、そもそも採用の対象にはなりません。    

>マーケティングなど、日本だったら「大学の座学などムダだ、わが社の経験とノウハウを学んでもらう」などと言われそうですが、グローバルな世界では違います。    

 

序列社会の仕来りは、国外では通用しませんね。   

 

>ウェブマーケティングを大学で学び、データサイエンスとウェブ、SNS戦略の理論と最先端、さらにはデザインの理論とノウハウを修めた若者を、各企業は必死で集めるからです。    

 

そうですね。