舞田敏彦氏  

 

>政府が教育にカネを出さない日本に未来はあるか >2020年6月17日(水)16時40分 >舞田敏彦(教育社会学者)

>学費が高い理由は、国がカネを出さないから pong-photo9/iStock.

><日本は教育費の公的負担率が極端に低く、そのぶん家庭に負担を強いている>

>新型コロナの影響で、学生の生活が苦しくなっている。 >保護者の収入が減り、自分のアルバイトも切られるというのが現状だ。 >1日の生活費が200円、大学生の5人に1人が退学を検討しているという、悲痛なニュースも目につく(高等教育無償化プロジェクトFREEの調査結果)。 

 

高等教育にはお金がかかりますね。日本人は、無哲学・能天気ですから、哲学の勉強に必要な英米流の高等教育の必要性は、ほとんど理解されていませんね。 

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

 

>感染症によって学生の生活が脅かされる、退学まで考えないといけないというのは、大学の学費が高額な日本ならではの問題と言えるかもしれない。 

 

学生への経済支援が必要ですね。   

 

>今は国立でも年間50万円超、私立だと100万円近くの学費がかかる。>この負担を重いと思っている家庭は多いはずだ。

>筆者は10年間、入試難易度では「中の下~下」の私大で教えたが、「授業料が高い」という学生の声をよく聞いた。 

 

政府の指導で料金値下げにはならないのですかね。  

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて堅ぐるしい日常生活を送っている。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。無哲学・能天気である事は、人々にとって全然気にならないことである。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

>このレベルの私大だと、家計に余裕がなく、たくさんアルバイトをして、奨学金もフルに借りて必死に学費をまかなっている学生が多い。

>「学費が高いのは、大学の先生が高給をもらっているからではないか」と発言する学生もいたが、実際にはそのようなことはない。

>学費が高い理由は、国がカネを出さないからだ。 

 

政府は財政難でしょうね。’各人に哲学は必要である’ (Everyone needs a philosophy ) ということは、わが国の政治家の空いたでは考えられていないでしょうね。     

 

>2016年の統計によると、日本の高等教育費用の負担内訳は公費が30.6%、家計負担費が52.7%となっている。>公費より私費負担が多いが、どの国でもこうなのではない。><図1>は、主要7カ国の比較図だ。>data200617-chart01.jpg 

 

図1 高等教育の費用負担の内訳 (%)    

国名                     政府       家庭

日本                     30.6       52.7

韓国                     37.6       44.3

アメリカ             34.6     46.2

イギリス             28.3       49.1

フランス             77.1       11.2

スウェーデン      84.2       わずか

フィンランド      92.5       0

 

>日韓と米英は家計負担型、仏と北欧は公費負担型と分類できるだろう。>フィンランドでは、家計負担割合がゼロだ。>この国の大学の学費は原則無償だそうだが、それがデータに表れている。

 

この国は教育立国ですかね。  

 

>OECD経済協力開発機構)加盟国のなかで見ると、日本の52.7%という家計負担割合はチリに次いで高い。>この数値が50%を超える、つまり高等教育費の半分以上が家計負担でまかなわれている国は、チリ、日本、コロンビアの3カ国だけだ。

 

これらの国々は特に家計に余裕がある国というわけではないでしょうね。   

 

>OECDの平均値が23.4%であることから、日本の高等教育がいかに家計に負担を強いることで成り立っているかが分かる。

 

そうですね。

外国の事情は分かりませんが、わが国では教育が単なる処世術として扱われていますからね。立身出世のための単なる個人的な手段ですから、政府も高等教育を公費で賄うのは乗り気でないのでしょう。

過酷な受験競争も進学競争も、単なる私利私欲のための励みとしか考えられていませんから、一向に学問の興隆にはつながりませんね。わが国の大学も低級なものばかりが揃っていますね。

日本人には世界観がないから’来るべき世界’ の内容を真剣に論ずる人がいませんね。それで国民も政治家も未来社会の建設に乗り気ではありません。皆が政治音痴になっている。

政治も教育も未来社会の内容を決めるための重要な手段ですからね。日本人には未来の内容がない。一寸先は闇に見える。全国民がその日暮らしの感覚で暮らしている。だから、わか国は世界に置いて行かれる。  

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている’。 (ウスビ・サコ)

 

 

 

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国際教員調査 

 

>361708 批判的思考が低い日本の教師に、批判的思考を育む授業はできない  >山本紀克 ( 31 会社員 ) 20/11/12 PM03

>OECD経済協力開発機構)の国際教員調査「TALIS 2018」では、授業において批判的思考を促すことがどれほどあるか、と問うている(対象は中学校教員)。

[OECD国際教員指導環境調査, TALIS: Teaching and Learning International Survey]  

>というその調査結果の表があって、日本だけ突出して他のOECD諸国より40%以上も低い結果となっている。

 

そうですね。 ポルトガル 97.9%, 上海 85.2%, アメリカ 82.3%, 韓国 76.5%, 日本 24.4%.

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/09/post-94329.php?fbclid=IwAR2jB5hh1OskNqRyHkqfLuQTCFhIYXr0lLen-d9YsTuNL1hxYSN4gitKkEg  

 

> 教員もそもそも学校も、何も考えない人材をつくりだしているだけだ。

 

どうもそのように考えられますね。

 

>-------------------------------------------

>「批判的思考が低い日本の教師に、批判的思考を育む授業はできない」リンク ><大学4年間の教職課程で、社会問題への関心や批判的な精神は薄められてしまう> >8月4日の日経新聞ウェブ版に「教員養成、現場の創造性高めよ 批判的な見方が必要」という記事が出ている。 

 

日本の大学の教養課程は、教養 (哲学) 教育には役立ちませんね。

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べで個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

 

>教員志望の学生を追跡してみると、学年が上がるにつれて現場と直結した実践的なことを学ぶ学生の比率が高まるが、その一方で社会問題や政治・選挙への関心は薄まるという(紅林伸幸・常葉大学教授)。  

 

 日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)    

 

> (略)

> 自由奔放な思想や行動が許される学生の時期までもが、今の教職課程では学校現場の色に染められてしまう。  

 

日本人・日本語には現実の内容しかありませんからね。非現実・哲学・考えがない。    

 

>風変わりなことや批判めいたことを言うと嫌われるので、社会に対する関心、批判精神が薄れるというのは道理だ。  

 

人の振り見て我がふり直せ’ ですね。  

 

>■牙を抜かれた教員たち > こういう学生が採用試験を突破し、学校現場にやってきたらどうなるか。 >教育委員会や管理職にすれば扱いやすい存在だろうが、現場に新風を吹き込む創造性など持たないだろうし、学習指導要領で重視されている「批判的思考」を育む授業も期待できない。>それはデータで裏付けられる。>OECD経済協力開発機構)の国際教員調査「TALIS 2018」では、授業において批判的思考を促すことがどれほどあるか、と問うている(対象は中学校教員)。>肯定の回答(「A lot」「Quite a bit」)の比率を拾うと、日本は24.4%でしかない。対してアメリカでは82.3%にもなる。> 調査対象の46カ国・地域を高い順に並べると<表1>のようになる。https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/09/post-94329.php?fbclid=IwAR2jB5hh1OskNqRyHkqfLuQTCFhIYXr0lLen-d9YsTuNL1hxYSN4gitKkEg >日本の数値は最も低く、すぐ上のノルウェーとの差も大きい。>ダントツのワーストだ。>比率が低いことに加え、国際標準からも外れていることに注意しなければならない。> 「批判的思考とは何か」を深く考えてしまったのかもしれないが、ここまで他国と違うとは驚きだ。 

 

驚き 桃ノ木 山椒の木’ ですね。

 

(略)

>従順に飼い慣らされ、批判的思考の牙を抜かれた教員が、批判的思考を育む授業をするのは難しい。 >教員が考えないのに、子どもが考えるはずがない。

 

そうですね。

 

>以前、日本の若者の創造性や冒険志向は世界最下位というデータを出したが(「世界一チャレンジしない日本の20代」本誌、2015年12月1日)、学校でどういう授業を受けてきたかの違いかもしれない。 

 

日本人には意思がない。  

 

> (後略) 

 

 

 

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クリティカルシンキング 3/3  

 

>自分の考えを言語化し、他者に伝える経験を積ませることで、安易な思考で答えを出すのでなく、立ち止まって冷静に考える習慣が身についていきます。

 

安易の思考で答えを出すと、日本人の場合は歌詠みになるのではないでしょうか。歌詠みのように文章にならないものには意味が存在ません。

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。’自由のはき違え’ となる。だから日本人は、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。哲学と意思は文章になるから意味がある。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。だから、行為が行為が現実の中にうずもれて低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。

 

> 親子でディスカッションをしてみる >新聞やインターネットの記事を親子で読み、ディスカッションをしてみましょう。>クリティカルシンキングを鍛えるには、思考を言語化する訓練が最も効果的です。 

 

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人畜共通の非言語の世界である。

 非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。考えは人間だけが持つ言語の世界である。 

 

>子どもは子どもなりの意見を持っています。>しかしその思いを人に伝える機会がないと、自分の思考について検証することも、自分の思い込みに気づくことも、ロジカルに説明することもできません。

 

そうですね。’Practice makes perfect’ ですね。 (習うより慣れろ)

 

>親子のディスカッションは、正解がなく、楽しいテーマから入るとスムーズです。

 

そうですね。  

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。  

矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。

矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。

考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。

 

>とえば「宇宙人は存在するのか」「死後の世界はあるのか」「超能力は実在するのか」というインターネット記事を親子で読み、クリティカルに意見交換してみてください。>また子どもにとって身近な話題、たとえば「学校に制服は必要か」「学校でコロナウィルスに感染しない方法は」「なぜ勉強しなければいけないのか」「いじめをなくす方法は」というテーマを振ると、面白がって話に乗ってきてくれます。

 

そうですね。議論・対話を広めましょう。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に力を合わせることも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

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クリティカルシンキング 2/3  

 

> 小学4年生の理科の授業を覗いてみましょう。>セキツイ動物について勉強しています。>「ハ虫類と両生類、どこが似ているのか教えてください」先生が質問すると、子どもたちが一斉に手をあげます。> 「どちらもたまごを生む」「どっちも気持ち悪い!」「どちらにも目がある」「どちらにも手足がある」> 生徒たちの自由な発言に対して先生は問いを重ねていきます。「本当にどちらもたまごを生みますか?」「本当に手足がありますか?」「本当に気持ち悪いですか?」 >すると生徒たちは「かえるには手足があるけど...へびには手も足もない!」「ボクはトカゲは可愛いと思う!気持ち悪いというのは主観です!」というように、直感的に答えに飛びつくのでなく、一度立ち止まって自分の思考について考え直す習慣を身につけることができます。>アメリカの学校で生徒の授業参加が重視されるのもクリティカルシンキングを鍛えるためです。

 

そうですね。楽しそうな授業ですね。  

 

>頭の中にぼんやりと存在している思考を言語化し、他者に伝えることによって「クリティカルに考え、論理的に伝えるプロセス」を訓練しているのです。 >また他者の多様な思考に触れることによって、自分の思考の偏りや思い込みに気づくことができます。 > 先生の仕事は「答え」を教えることではありません。>生徒がクリティカルに考えられるように「問い」を重ねることです。>「なぜ?」「本当?」「どうして?」「根拠は?」と問い続けることで、生徒は「自分の思考を思考する習慣」を身につけることができます。

 

そうですね。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)    

 

>クリティカルシンキングを教科学習に取り入れることで、機械的に知識を記憶するという受動的な学びから、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決していく「能動的な学び」を実現することができるのです。

 

日本人には意思がない。だから、能動が無く受動ばかりの生活を送っています。その結果、被害者意識があって、加害者意識 (罪の意識) がありません。これは、アニマルも同じです。  

 

>クリティカルに考える力が不可欠 > 高度情報化社会で賢く生きていくには、自分にとって必要な情報を取捨選択し、吟味し、活用する「情報活用能力」が要求されます。>新型コロナウィルスによって学校における情報メディアの拡充が急務になってきていますが、その一方で、子どもたちが氾濫する情報に流されてしまうことが危惧されています。>インターネットの世界はクリティカルシンキングを鍛える最適の場です。 >情報を鵜呑みにせず、正しい判断ができるように、インターネットに潜む「ワナ」や「ウソ」について親子で話し合う機会を持つことをお勧めします。  

 

そうですね。騙されたと分かってから ‘私は相手を信じていた’ とさも自分は善人そのもののように誇らし気に語る日本人は勘違いですね。  

 

> 「その情報は事実なのか、著者の意見なのか」「何を根拠にしているのか」「何を意図しているのか」「著者や媒体に偏見がないか」など、情報の本質について「検証」する方法を子どもに教えてあげてください。

 

わが国のマスコミは責任感が無いので情報の垂れ流しにします。  

 

> 子どもにクリティカルシンキングを教える基本は、「本当」「なぜ」「誰が言っているの」と、「問い」続けることです。 

 

現実直視、リーズン (理性・理由・適当)個人主義など、どれもこれも日本人には難しい内容ですね。   

 

 

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クリティカルシンキング 1/3 

 

>361706 日本人に足りない「思考技術」を育てる方法は?  >井上智貴 ( 23 会社員 ) 20/11/12 PM01

>以下引用 >リンク

>クリティカルシンキングとはよく言われますが、これこそ「答えのない時代」を迎える子供達に欠かせないスキル。  

 

そうですね。日本人は、考えるのに忙しすぎますね。’理屈などは子供にでもわかる’ と言いながら、もっと難しいこと (恣意と人間序列の関係など) を沢山考えているようですね。

 

>フィジカルな接触を避けるのが当たり前になった世の中で、インターネットの情報がもたらす効果は計り知れません。>親から子へ、情報の本質について「検証」する方法を教えましょう>  

 

お願いいたします。いよいよ言語が大切な時代になりましたね。言語は伝達の手段のみならず、思考の大切な手段ですからね。  

 

>PISAは「読解力」の定義を「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発展させ、社会に参加するために、テキストを理解し、利用し、評価し、熟考し、取り組む力」としています。[ Program for International Student Assessment: OECD生徒の学習到達度調査]  >ポストコロナで求められる能力「いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決する能力を育む。」 >文部科学省が学習指導要領の理念として掲げている提言です。>この文章はPISAの「読解力」の定義とそっくりです。

 

日本人は、 ‘自ら、、、、’ は難しいでしょうね。

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

 

>両者が求めている力は具体的に何かと言うと、これまで日本の学校教育でほとんど指導されることがなかった「クリティカルシンキング」と呼ばれる思考技術です。

 

そうですね。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制 (tense) のある文章により表されます。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表されます。その内容は世界観 (world view) と言われていて、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行きます。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中に存在します。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれます。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しにします。これは、子供の状態です。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がありません。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流します。ですから、どんぐりの背比べで個性がありません。

 

>クリティカルシンキング(批判的思考)とは、思い込みやバイアス(偏見)を排除して物事の本質を見抜く思考、既成概念にとらわれず自由にアイデアを発想する思考、周囲の意見に流されず自分にとって最良の答えを導き出すための思考技術のことです。

 

そうですね。その思考技術が日本人には難しいのです。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)  

 

> 「答えのない時代」を迎える中で「自分が何をしたいのか分からない」「自分はどう生きたいのか分からない」など、将来の夢が描けない若者が増えています。

 

そうですね。日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がありません。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいます。優柔不断・意志薄弱に見えます。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になります。

' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

 

>私はその一因として「思考技術」を家庭や学校で学んでいないことがあると考えています。

 

そうですね。 見ることのできる内容は ‘本当’ の事です。見ることのできない内容は ‘嘘’ です。誰しも ‘嘘つき’ にはなりたくないから、自分の非現実 (考えの内容) は語らない。これが、日本人の思考停止の原因であります。

 

> 米小学校に学ぶクリティカルシンキングの教え方 >アメリカの学校では、国語(英語)、算数、理科、社会、全ての教科指導にクリティカルシンキングが取り入れられています。 >先生が一方的に教科書知識を講義する日本の授業スタイルとは異なり、アメリカでは生徒を能動的にディスカッションに参加させ、気づきと理解を引き出していく授業スタイルが主流です。

 

気づきとれ理解ですね。暗記力では、我々は記憶装置には太刀打ちできませんからね。

 

 

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属国意識・服従意識 2/2  

 

>決して、権利・義務の関係ではない。

 

これは、横社会のメンタリティですね。   

 

>ルール遵守の法治主義でもなく”恣意的な超法規主義”。 

 

そうですね。恣意的ですね。   

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。’自由のはき違え’ となる。だから、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。だから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来時制の内容はないから一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。だから、建設的な提言はできない。   

 

>  法律無視で、傲慢な、菅政権や官僚たち、行政の振舞を見れば納得がいく。

 

日本人にはリーズン (理性・理由・適当) が無いので、アンリーズナブル (理不尽) に事を進めます。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、個性がない。個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>  現在、”服従の哲学”を有効ならしめているのが、権力による”情報独占”と”超法規的な生殺与奪権”である。>本質的には”システム”(官僚等)独裁である。

 

そうですね。国民には、ただ大本営発表だけがある。

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている’。 (ウスビ・サコ)    

 

>  直接的な”服従の哲学”の推進者は、官僚支配のもと、マスメデイアと検察(裁判所はオプション?)だろう。

 

序列社会における垂れ流しの人間が服従の推進者ですね。  

 

>  ”服従の哲学”から抜け出す第一歩は、”真実を知る””公然と意義を唱える””行動する”だろう、と思う。  

 

日本人には現実直視が必要ですね。世界観と批判精神も必要ですね。   

 

>  マスメデイアの情報独占に対して、本掲示板や、阿修羅、岩上サイト(IWJ)などネットメデイアが、風穴を空けつつある。 >”日本のアルジャジーラ”の出現ももうすぐだろう。 >  我々も”静かな日本人”のまやかしに乗ることなく、”意義を唱え””繋がり””行動”を広げていきましょう! 

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に力を合わせることも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

>-----------------------------------終了 

 

 

 

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