空気 2/2 

 

>(中略)

> 日本人の特性として顕著な“常に周囲や他者の目を気にして行動する”スタンスがこの言語表現をより強固なものにしている。

 

困ったものですね。   

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

 

> 万が一、「自分の伝える情報が何か間違いを引き起こして、話し相手を失望することがあってはいけない」と、こうした表現を使うこともあれば、「100%そうであるという自信がない」からごまかしたり、はたまた、「直接話をしているときには、相手の顔色を伺いながら、会話の途中まで胸を張って話をしていたはずなのに、文末でその内容を少し否定的な表現や曖昧表現にして濁す」ことだってある。  

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。マスコミも現実の内容をただ垂れ流す。だから、どんぐりの背比べで個性がない。有力紙が育たない。

個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、相手からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。    

 

>(中略)

> 日本では、会話など、何がしか言葉を伴う対人関係において、その雰囲気から相手の意向を慮り、それを直接確認することは時に無粋と捉えられたりもする。  

 

日本人は無哲学・能天気であるから、それをことさら直接確認することは無粋ですね。   

 

>たとえば、一つ何か情報が与えられると現状または近い将来起き得る10のものごとを悟るなどして、場面に応じて奥ゆかしく、状況を各々が鑑みていくという性質である。  

 

奥ゆかしい’は、’奥が見たい’ ということである。だが、日本人は無哲学・能天気であるから、奥には何もない。奥ゆかしいは、ただの雰囲気を指して言う言葉である。日本人にはその雰囲気に大きな価値を認めている。   

日本人には儀式 (形式) があって教義 (教え) がない。これは無哲学・能天気な国民の特徴である。子供の祝いは七五三で宮参り、結婚式はチャペルで行う。死んだときには仏式で葬儀を行う。教義がないのであるから、形式の正確さは譲ることができない。  

 

>これが捉え方次第では曖昧表現となり「日本人は自己表現が苦手な国民」という見られ方をされることに繋がっている。 

 

哲学 (考え) がないのであるから、明確な表現は何もない。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 哲学は考えである。政治に関する考えは政治哲学になる。政治家には政治哲学が必要である。        

 

> 全てを語らないことに尊さを感じる文化が古くから日本の文化に深く関連していることが、複雑さや曖昧さを生み出したのだろう。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」     

 

> 日本人というのは常に相対する誰かを慮ることを前提に行動を起こす。>これが日本語を曖昧で多様性を孕む言語へと発展させたのだろう。  

 

日本人には個人主義が無いので、その言動は常に没個性になる。日本式の礼儀作法がある為に日本人は没個性になるのか、没個性の為に礼儀作法に執着するのか。正しい礼儀作法を求めてやまないようです。     

 

> 各人の捉え方に感覚を委ねているというよりかは、日常的に相手を想い言葉を丁寧に紡いでいるため、意図して曖昧にしていたり複雑化させているわけではないのだ。 

 

日本語は、常に ‘丁寧’ か ‘ぶっきらぼうかを常に考えて話さなければならない言葉ですね。   

 

 

 

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空気 1/2 

 

>361581 空気を読む日本人と日本語

>大森久蔵 ( 30代 専門職 ) 20/11/07 PM09 【印刷用へ】

>常に相手発の日本人の性質が、あいまいで多様性のある日本語を生み出したのだろう。 >リンク

>日本語は不思議な言語である。>その表記の仕方次第で、文字情報として入ってくる印象や受け手に伝わる質感まで変わる世界でも稀有な言語だ。 

 

日本語は、気分・雰囲気を伝えるための言語でしょうね。考えるための言語にはなっていないようですね。歌詠みの為の言語かな。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。  

矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。

矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。

考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。  

 

> 漢字にカタカナ、ひらがなと、同じ言語で使用する文字が3種類存在する上、世界のどの言語よりも細かに敬語に分別が必要である。  

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列なきところに礼儀なしである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて堅ぐるしい日常生活を送っている。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。  

 

> 多数の同音異義語が存在し、発音が似通っていても文脈、場面、使う漢字で意味が異なってくる。

 

それは高文脈文化の特徴でしょうね。同音異義語が多いとローマ字表記が難しくなりますね。外来語は原語 (alphabet) 表記にすると手間が省けますね。      

 

>(中略)

> 日本語の表現方法というのは、明らかに他の言語にない細かいニュアンスやキャラクター性まで紡ぎだす性質がある。 

 

日本語は現実描写に専念した言語ですね。話にうつつ (現) を抜かしてはいけないと言われています。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

 

> 語尾の言い回しひとつで、なめらかに聞こえたり、丁寧に聞こえたり、かわいらしく聞こえたり、凛々しく聞こえたり、内容そのものは同じでも、語尾を替えるだけで物事の聞こえ方が大きく異なってくる。>たとえば、あなたがオレンジを手に持っていて、それは何?と誰かに問われたときの回答として、話し手の性質や相手が誰かによって、こんなにも印象表現に種類が多様化する。> 例:>・これはオレンジ > ・これはオレンジだ (断定的な表現) >・これはオレンジね (訂正や同意を求める表現) 、、、、、、 >どれも全く同じ意味なのに、語尾を変えるだけで全く印象の違う言葉になる。

 

そうですね。  

 

> 日本語には、同じ意味をもっている表現がたくさんある。>おそらく、世界でもこんなに紛らわしい言葉はないだろうというほど、同じ言葉でも、たくさんの意味を持つ。

>(中略)

> 日本語は主語のない形でも会話が成立する言語。>さらに、語尾を「かな」や「だけど」のように曖昧表現にもできるので、主語なく“誰が”を明言しなかったり、語尾も、断言をしないことで話者が責任を一手に担うのを避けることもできでしまう。

 

とかくこの世は無責任ですね。この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。とかくこの世は無責任。      

 

> 「空気を読んで察する」ことが会話やコミュニケーションで大きな役割を担う日本語では、「曖昧表現」も対人関係で大きな鍵を握る。 

 

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

 

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夢 2/2  

 

> 夢の対象は自分のみであるかゆえに個人のモチベーション一つではたせなくなります。  

 

アメリカ人の夢は文章内容として全世界に知れ渡り、賛同者により大きな力を持つことになります。

日本人の夢は時制がないのでバラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままであり、何が何だかわからず空理空論に終わります。  

 

>しかし、「志」は対象が自分以外にもいるためにあきらめられにくく、願いも果たされやすいとも言えます。> 特に「志」は想いが大きければ大きいほど時代を超え引き継がれていくまで昇華できます。

 

志は恣意ですから演説の内容にはなりませんね。   

 

> 事実、日本という国が 世界で一番長い歴史を持つ古い国家になったのも「志」を引き継いでつないでいったのではないかと考えられます。> 例えばビジネスでは、世界最古の企業トップ3すべて日本企業です。>さらに1000年続く企業が7社も あります。

 

日本人は序列人間です。序列の存在を知れば、一も二も無くその序列に価値の存在を認めます。  

日本語には階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせません。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられます。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されています。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいています。ですから、’序列なきところに礼儀なし’ です。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要があります。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて堅ぐるしい日常生活を送っています。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がありません。ですから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまといます。   

 

>これは、伝統を守りつつさらに時代の変化に対応でき、 柔軟に行動できないと難しいと判断できます。

>それは、単に伝統だけにとらわれては変化は難しいはずでそのビジネスに対して想いをもって行動しなければ長続きはできないでしょう。  

 

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

> 戦後になり、 日本はアメリカのGHQの指導により戦前の教育を変えられてきました。>それは、再度、戦争を起こさないようにするためでしたが、その中には日本の誇るべき良い文化や伝統までも変更させられた事もあります。>そしてその中の一つとして「志」ではなく、「夢」を多用することになりました。>アメリカンドリームという「夢」が導入されアメリカの影響で「個人の夢」、「個人の自己実現」を目指すという考え方が主流となっていきました。 

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。時制を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観を持つことも出来、それを基準にして批判もできます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。できれば留学して英語で日常会話が話せるようにすることが国際人なる近道でしようね。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

>そして「志」という概念は弱くなり薄くなっていったと言えるのです。> 吉田松陰坂本龍馬のような歴史的人物や現代では孫正義氏や多くの企業経営者が「志」の大切さを話しています。> 「志」を持つことが希薄になった今だからこそ「志」の重要性を今一度考えてみてはいかがでしょうか? 

 

わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。   

 

> ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(略)

 

 

 

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夢 1/2 

 

>357322 持つ物は夢ではなく志である。 >社会に出る子供たち ( 12 類学舎生 ) 20/06/01 PM01 【印刷用へ】 

>社会に出ている子供たちは、夢と言うより志に近い物を持っている。

>リンクだが学校などは「志」より「夢」とか「将来何になりたい」とかがとても重要視されている。>疑問が浮かぶ。> 「夢って何?」「志ってなに?」というもの。>夢とか志の違いに触れていこうと思う。

>  以下、夢と志の違いって何?リンクより転載

> ~~~~~~~~~~~~~~~

> 戦前は「夢」と言う言葉は あまり使わなかったようです。

 

日本人の夢とアメリカ人の夢は違っているようですね。日本人の夢は ‘夢・現 (うつつ・現実) ・幻’ の中の三つの中の一つ、即ち ‘夢’ ですね。日本語の文法には時制というものがないので、未来と過去の内容は (非現実) 文章になりませんね。ただ現実のみが文章になります。文章にならないものには意味がないので、日本語の夢と幻の内容には辻褄が合いません。日本人は ‘夢・幻の人の世’ に住んでいます。

アメリカ人の夢は、過去・現在・未来の中の一つ、即ち未来の内容ですね。英文法には時制 (tense) というものがありますので、それぞれの時制はその非現実 (考え) の文章内容を表すことができます。未来の内容は文章になって夢の内容となることができます。  

彼らの夢は非現実の内容となって現実の中に確実に存在します。以下はその一部です。

 

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: We hold these truths to be self-evident that all men are created equal.  

私には夢があります。いつの日か、この国が立ち上がりその建国の信条の本当の意味 – つまり ‘我々は、全ての人間は平等なものとして創造されたということを自明の理として確認する’ - と共に存続するようになるという夢です。

I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

私には夢があります。いつの日か、ジョージアの赤茶けた丘の上で、昔は奴隷だった人々の子孫と、昔は奴隷の所有者だった人々の子孫が、同胞のテーブルに一緒に座ることができるようになるという夢です。(引用終り)   

 

アメリカ人の夢 (未来) は文章内容になるので意味・意義がある。価値判断の対象になります。そして、その発表者は不滅の人になります。

日本人の夢は恣意 (私意・我儘・身勝手) であるから辻褄の合った文章内容にならない。だから、夢・幻 (非現実) を語る者は相手にされません。

 

>しかしその代わりに使っていたのが「志」でした。 

 

志は恣意ですね。

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。 ‘自由のはき違え’ となるから、昔からの ‘不自由を常と思えば不足なし’ のままである。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。ですから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。相手の理解も得られない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。考察の対象にはなりません。

 

> 志と夢の違いはいったい何でしょうか? 

 

非現実を内容を ‘文章化している’ (アメリカ人の夢) か ‘いないか’ (日本人の志) の違いでしょう。   

 

>そして、どうして「夢」を使うようになってきたのでしょうか? 

 

西洋人の夢は世界的に評価を受けるから生きています。そして、日本人の夢は評価の対象にならないから捨てておかれます。  

 

(略)

> 言い換えるなら、 夢とは、達成できたらいいな~という個人の目標や希望であり、あいまいな想いの可能性も高いです。 

 

アメリカ人の夢 (非現実) は未来時制の文章内容になるので自己の確信になります。

日本人の夢は文章内容にならないので曖昧な思いのままで存在します。  

 

> 一方、志は個人の願いだけでなくよりもっと公的で、周りの人を幸せにしたいという想いであり、そして、行動も伴っているもの。であるといえます。 

 

志’ は文章内容にならないので、’とらえどころのないもの’ になります。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」  

 

 

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バカになる 2/2  

 

>頭でゴチャゴチャと考えている間に見切り発車でも行動していれば、大きなリターンを得られたかもしれないのに・・・。

 

それは、’たられば’ の話ですね。   

 

> (途中略)

> 加点法で点を取りにいこう

> 高学歴とされる人々がこうした事態を避けるためには、大学受験を終えたらできるだけ早いうちに思考を減点法ではなく「加点法」に切り替えておくことだ。

 

それは良い考えですね。   

 

> (途中略)

> 失敗の経験からしか学べないことは数多くある。>結果は失敗であっても、行動したことが後の加点を生むことも多い。

 

そうですね。失敗は勉強の機会となりますね。失敗は経験豊富な人物を育みますね。     

 

>そして、最終的には、動き回って100点以上の点を集めた者の方が圧倒的に評価される。 

 

なるほど加点法を採用すれば100点満点の枠を突破できますね。    

 

> 時代の閉塞感を行動力で打開せよ

> リスクを避けて安全で堅実な道を選択することもビジネスでは大事である。 >しかし、日本という国はもはや欧米という手本を効率よく真似していればよかった高度成長のステージにはない。

 

そうですね。わが国が猿真似をする時代は終わりましたね。   

 

>今は欧米や中国と同じステージで、人類の新たな価値創出をめぐる激しい競争にさらされている。>そしてどうやら、その戦いでずいぶんと疲弊してきている。

 

価値創出は異次元の戦いですからね。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)  

 

>世界レベルの技術革新で既存のビジネスの仕組みが破壊され、そこに少子高齢化に伴う消費の縮小も重なり、国の、時代の、個人の閉塞感はどんどんと高まっている。 

 

日本人には現実しかないから、閉塞感が高まりますね。この国には何でもあるが、只、’夢と希望’ (非現実) だけがない。     

 

>  個人ベースでも、もはや与えられた仕事をただ安全にこなしてさえいれば評価される時代ではなくなっている。

 

駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人。昔は社会が動かなかった。

 

>日本の企業には終身雇用や年功序列を維持する余裕がなくなってしまった。 

 

序列社会の崩壊ですね。  

 

>これからの社員は、仕事に自分で考えた付加価値を与えていける者でなければ、ある程度の年齢でパージされてしまうだろう。>  だからこそ、リスクをものともせず点を取りにいくという加点法が大事になる。 

 

そういう事になりますね。  

 

>  それは、受験が得意だった彼らが受験勉強では学ぶ機会がなかった考え方だ。

 

そうですね。上限のない採点法は受験勉強では学べませんね。  

 

>もちろん、慣れ親しんだ減点法とは正反対の評価方法だから、切り替えには恐怖が伴うことだろう。 

 

加点法は閉塞感のない採点法ですね。希望に通じる道ですね。      

 

>エリートとしての自覚のある人間がルールや定石が確立されていない分野に挑戦すること、そこで失敗を重ねる自分の姿を受け入れるのは簡単なことではない。 

 

失敗は成功のもとですね。よい勉強になりますね。頭の固い人には厳しい道ですね。      

 

>事実、人生の中盤を過ぎてもこうした切り替えを行うことのできない人も少なくない。>失礼を承知で言うが、私が今回の本の取材で出会った東大卒業生の多くはそのような人だった。 

 

新発見ですね。変わり身の早さは日本人の得意芸ではなかったですかね。     

 

> まわりに「あんな無茶なことをやってバカなんじゃないか」とか「エリートのくせに失敗ばかりでたいしたことはない」と言われようとも、社会ではがむしゃらに点を取りにいった者が最後は勝利をつかむのだ。 

 

虎穴に入らずんば虎子を得ず’ ということですね。

 

>回数をこなしていれば、必ず後に「あのときはバカをやったが、バカをやったから今がある」と言えるようになる。 

 

学習効果が表れたのですね。   

 

>もし今、あなたが閉塞感にさいなまれているのなら、その不幸な状態は、加点法をベースにした行動量で打開することができるだろう。 

 

そうですね。青天井の下で業績を積んでもらいたいものですね。      

 

> (引用終わり) 

 

 

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バカになる 1/2 

 

>361477 東大卒業生に足りない「バカになる」ということ  >匿名希望h ( 中年 技術者 ) 20/11/03 PM03 【印刷用へ】 

>学歴社会が崩壊したのは、社会人だったらだれもが実感しますが、社会に出ていない学生や教育ママには実感できないかも。 

 

そうですね。わが国の学歴社会は伝統的な序列社会の言い換えのようなものですね。   

 

>表題の記事が掲載されていました。 >引用させて頂きます。>リンク

>(以下途中から引用)

>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>問題は行動量の少なさ

『東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話』(池田 渓著、飛鳥新社)&copy; JBpress 提供 『東大なんか入らなきゃよかった 誰も教えてくれなかった不都合な話』(池田 渓著、飛鳥新社) 

 

東大以外の日本の大学に入学した人も似たような思いはあるでしょうね。   

 

>  せっかく日本では最上級の学びと研究の環境を与えられながら、それを後の人生に生かすことができなかったある種の人々。  

 

序列社会の枠内に閉じ込められているので、どうにもならないですね。外国の最上級を与えられたら卒倒しますね。     

 

>取材を通して彼らに共通して見られた傾向、それは「行動量の少なさ」である。 >「自分の特性とは合わない環境でがんばりすぎる」「いつまでも一つの手法にこだわり続ける」「考えすぎてしまって大きな仕事をやり通せない」etc.・・・。>  なぜ、彼らの行動量は少ないのだろうか? >それは、受験の勝者である彼らが「行動の結果、失敗すること」を極端に恐れるからだ。 

 

受験の勝者は行動の初心者ですね。   

 

> 「優秀な人」は失点を恐れて機を逸する

> 彼らの失敗に対する恐怖心を育んできたもの、それは幼少時から受け続けてきた学力試験だ。>学力試験では100点を上限に、間違った解答の点数が差し引かれていく。>つまり、 「減点法」による評価だ。 >そこで高評価を得るためには失点を可能なかぎり避けなければならない。>東大生は、義務教育で9年、高校で3年、ひたすら学力試験を受け続け、この減点法という評価方法のもとで高評価を得てきた人たちである。>日常的な思考に減点法が染みついてしまっており、日常のあらゆるシーンで極端に失点、すなわち失敗することを忌み嫌う。

> (途中略)

>  そこには、東大生に特有の高いプライドも影響している。

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、世俗的な序列順位は重要である。社会的な地位・肩書は重要な指標になる。序列なきところに礼儀なしである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、日本人は堅ぐるしい日常生活を送っている。序列判断を間違えると神々による祟りは恐ろしい。

日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には軽薄さが付きまとう。   

 

>彼らは人に自分の失敗を見られることをひどく恐れる。

 

そのような心理状態では、彼らはスポーツなどはやっていられませんね。   

 

>幼いころから地域一番の神童として注目され、まわりからずっと「○○ちゃんは頭がよくてなんでもできる子ね」とほめられてきた。 >プレッシャーを感じつつも長年その期待に応え続けているうちに、プライドが少しずつ肥大してきた。 >ゆえに、なにごとにおいても失敗は許されない。>長い年月をかけて育んだ自尊心が、それを許さない。

 

そのような状態では、彼らは勝負事などはできませんね。 

 

>「なんでもできて当たり前」の人間は、新たな挑戦をするときも、はじめから完璧に成功をしなければならない。 >  しかし、そんな考えでいれば、前例のない課題に取り組もうというときも、どうしても失敗のリスクに行動が縛られてしまう。 >リスクを極力減らそうと分析や準備にやたらと時間をかけ、最終的に「失敗するくらいなら最初からやらない方がいい」という結論に落ち着いてしまう。 

 

無為でいれば、成功・失敗に関係ありませんね。だから、ケチはつけられませんね。プライドは保たれますね。   

 

>彼らが東大入試をクリアした持ち前の高い情報処理能力で「できない理由」を目ざとく発見したら、そこでチャレンジは終了だ。 

 

彼らにとっては、’できない理由’ が大切ですね。   

 

 

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活力最下位 

 

>361508 活力がダントツで世界最下位の日本人の可能性  >岡田淳三郎 ( 70代 経営 ) 20/11/05 AM00

>【日本人の活力がダントツで世界最下位なのは、なぜ?】

(略)

>◎結局、庶民が私権第一になったのは明治以降150年だけ。>従って、日本人の私権活力の衰弱は、段違いに速い。>それが、日本人の活力がダントツで世界最下位である理由である。 

 

日本人は序列人間である。序列社会に住んでいる。そして義理 (序列関係により生じる義務) を果たすために暮らしている。これは、働き甲斐のある仕事である。周囲の序列人間が仕事の価値を認めて序列順位に変化をもたらすからである。伝統的な序列順位昇進の夢がある。

時間勤務で金が支払われる制度は働き甲斐がない。義理が廃れば日本人の世は闇である。活力最下位がその結果である。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、世俗的な序列順位は重要である。社会的な地位・肩書は重要な指標になる。序列なきところに礼儀なしである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、日本人は堅ぐるしい日常生活を送っている。序列判断を間違えるとその祟りは恐ろしい。

日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。  

 

> 【縄文体質の欠陥と可能性】

>・共認原理の縄文人は、力の原理の渡来人に対応する術を持たず簡単に支配されていった。  

 

力は正義ですね。  

 

>・「和を以て尊し」となす日本人は、順応意識と同調意識が極めて強い。

 

なれ合いの風習ですね。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。非言語の世界ですね。  

 

>その結果、学校の強制圧力にも完全に順応し、与えられた情報を鵜呑みにするだけの思考停止した国民になって終った。 

 

指示待ち人間ですね。思考を停止している人はこうなるより仕方がないでしょうね。 

見ることのできる内容は ‘本当’ の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも ‘嘘つき’ にはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

 

>今や、95%以上の国民が、お上とマスコミのコロナ報道にコロッと騙されて、未だにマスクと消毒をし続けている。 

 

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)  

 

>・日本人は共認原理(空気のようなもの)で生きており、言葉も共認する(一体充足する)ためにある。

 

それは非言語の世界の音声ですね。人畜共通の世界ですね。   

 

>西欧のように、個人主義とか民主主義とかの観念でみんなを統合しようとはしてこなかった。 

 

個人主義とか民主主義は言語の世界の内容で、非現実 (考え) の世界に存在しますね。   

 

>その結果、真似をするのは上手いが、創造力や観念追求力は極めて貧弱だと思われてきた。

 

猿真似は現実の世界の内容ですね。そして、創造力や観念追求力は非現実の世界の内容ですね。日本人には現実があって、非現実がない。アニマルも同様です。      

 

>◎日本人は確かに観念追求力は貧弱だが、本能と共認機能発で自然や物を追求する力や、関係充足や性充足を追求する力は群を抜いており、さらに言語能力についても、漢字と仮名を組み合わせた世界最高レベルの言語体系を構築してきた。 

 

非現実の内容を表現できない日本語は残念ながら国際言語の主要言語の中には入れませんね。仮名・漢字の表現形式では地球上のどこの国でも通用しませんね。  

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に力を合わせることも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。

 

 

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